2020年6月14日(日)聖霊降臨節第3主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書3章1節~15節

「主イエスとニコデモ」 大三島義孝牧師

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。

3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。

3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。

3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。

3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

ニコデモという人は、ヨハネによる福音書だけに、三箇所に出てくる人物です。

一箇所はヨハネによる福音書7章です。主イエスを、ユダヤ人たちは捕らえて裁こうと思っていました。そこに、以前主イエスを訪ねたことのあるニコデモがいました。「われわれの律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたのか確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっている。」と、主イエスを捕えようとする動きをたしなめたのでした。

もう一箇所はヨハネによる福音書19章です。十字架の上で息を引き取られた主イエスのご遺体は、アリマタヤ出身のヨセフという身分の高い議員が引き取り、そのまだ使ったことの無い墓に葬りました。その埋葬の時、かつてある夜主イエスを訪ねたことのあるニコデモという人が来て、主イエスのご遺体を亜麻布で包んで墓に埋葬したというのです。

 今日読んでいただいた聖書の箇所が、かつてある夜、以前主イエスを訪ねたことがあったという、ニコデモの訪問の記事なのです。

1節に、ニコデモはファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員であったとあります。ニコデモは、サンヒドリンという、ユダヤの70人で構成される議会の議員でした。民の長老、イスラエルの教師であり、落ち着いた、教養と地位と名誉ある議員であったのです。

そのニコデモが、人知れず主イエスを訪ねました。それは知りたいことがあったからでした。ニコデモは、深い、霊的なことにつながる深い悩みがありました。

ニコデモはこう言いました。「ラビ(先生という意味)、わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」

唐突な問いに主イエスはお答えになりました。「はっきり言っておく、人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」

ちょっとシーンを戻しますが、夜、ニコデモは主イエスを訪れました。人目につかないためでありましょう。しかし夜は、ユダヤ人が律法を学ぶ時間でありました。特別な意味があったのです。

 ある説教者がニコデモの夜についてこう言っています。わたしは子供の頃、朝早く馬小屋で、馬たちのうち年取ったのはいつももう立ち上がっているのに、若いのは囲いの中で寝たままでいるのを見ました。そこでそのことを質問すると、農夫は「若い馬には眠りが必要だが、年取った馬はもう横になることはないのだ」と話してくれました。

この事情はニコデモの場合も同じことだと思うのです。「人は年をとってから生まれることがどうしてできますか」と尋ねているニコデモは老人でありました。そして、恐らくそれが、ニコデモが夜イエスのところに来た理由ではないかと思うのです。

ニコデモは主イエスのところに来ました。苦しみが彼を駆り立てました。彼は主イエスとの出会いによって、自分が今持っているもの、知識、人格に、さらに何かが加えられると考えた。そのようなニコデモのことを「ファリサイ人でありつつ、キリスト者であろうとしている」と言っています。

 彼は議員、指導者でした。文字通りには支配者、まさに彼自身の人生の支配者、自分の人生を司る権威を自分の手に握っている人です。そしてそれを決して手放すことなく神の国を見ようとしていたというのです。

主イエスはこのニコデモに向かって「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。」と言われました。「新しく生まれる。」この言葉は魅力的な言葉です。もう一度やり直すことができたら、もう一度生まれ直すことができたなら、そのような思いがわたくしたちの中にはあります。

主イエスのお言葉にニコデモはたたずみます。ただちに主のお言葉を理解し、受け入れることはできませんせした。「どうしてそんなことがあり得ましょうか。」「どのようにしてそんなことが起こるのですか。」。このニコデモの姿というのはすべての人間が直面している誰にでも当てはまる姿ではないかと思います。

新しく生まれる、それはわたくしたちが自分で自分を新しい存在となし、何ものかを自分のために獲得する、そういうこととは違うようです。「新しく」とは「上から」という意味です。キリストが「新しく生まれなければ」とお語りになった「新しい」という言葉は「上から」という文字です。「上から生まれなければならない。」すなわち「神によって新たに生まれる」ということです。神がわたしたちを「新しくしてくださいます。」

さらに「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と主イエスは言われました。

風という言葉は霊という言葉と同じです。霊、すなわち神の力によって生まれる、そのことをニコデモにお諭しになるのに主は風を引き合いに出されます。あなたは風の思いを量り知ることができるか、できないだろう。風は思いのままに吹く。それがどこから来てどこへ行くかは知らない、霊も同じだと。

ではどのようにして風はわたしたちを捕らえるのでしょう。「あなたがたはその音を聞く」と、そう主イエスは言われます。風を捕らえることはできません。しかし風は音によって知られます。音を聞いて霊の働きを知る、そのようにして風はわたしたちを捕らえるのだというのです。

 風という言葉が霊を意味するように音は「声」という言葉でもあります。ですから主イエスのお言葉を次のように訳し変えることもできます。「霊は思いのままに吹く、あなたがたはその声を聞く。」主のお言葉を聞くということです。神の言葉を聞く、そこに霊の働きを知り、新しく生まれるということが起こるのだと主は言われるのです。

6節、主イエスはこのように言われました。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」。肉というのは人間を指しています。それは朽ちる者、はかない者、初めがあり終わりのある有限な存在、それは肉です。しかしそれだけではなくて、この肉という言葉は罪に堕ち、ひねくれた姿になってしまっている人間の愚かさをもあらわしています。

 ニコデモはそのことを知っていたのではないでしょうか。自分の中にありとあらゆる鍵を見つけようとしながら、まことの鍵を持ち合わせていないことを知っていて、ただたたずむのです。「どうしてそんなことがあり得ましょうか。」「どのようにしてそんなことが起こるのですか」と。

主イエスとニコデモのやりとりの最後です。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには天に上った者はだれもいない。そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆人の子によって永遠の命を得るためである。」

 モーセが荒野で蛇をあげたというのは、民数記21章、青銅の蛇というお話です。

エジプトを出たイスラエルは不平、不満をあげつらいました。どうしてエジプトをでなければならなかったのか。わたしたちを荒野で死なせるのか。パンも水もなく、気力もうせてしまった。主は、不平をあげつらう民に炎の蛇を送り多くの死者がでました。わたしたちは神さまに罪を犯してしまった。どうしたらよいかとモーセに訴えたのです。

神さまはモーセに示しました。青銅の蛇をつくって、旗さおにつけ掲げよと、すると蛇にかまれた者も、その青銅の蛇を見上げれば命を得ると。そのとおりに。蛇にかまれても、モーセが掲げた青銅の蛇を見上げることで命を得たのです。

 蛇は悪魔の化身、毒は罪の象徴です。

 主イエスの十字架は、それは青銅の蛇、罪と不信の象徴でありました。それをわたしたちは見上げるのです。モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子、キリストが上げられなければならない。信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 わたしたちも新に生まれなければなりません。主イエスを信じて新たに生まれた者とされているというお話だと思います。

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