ヨハネによる福音書14章15節~24節
「聖霊を与える約束」 大三島義孝牧師
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
聖霊降臨日、ペンテコステの日を迎えました。復活日から50日目、ペンテコステという言葉に由来します。
この日、お弟子たちに聖霊が降り、教会が出発しました。聖霊の降臨と教会の誕生という、ふたつのことが一つの日に起こったのです。
使徒言行録第2章、エルサレムの二階座敷に集まっていたお弟子たちに聖霊が降ります。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した。」
風が吹いて来るような音が聞こえたとあります。風は、旧約聖書のヘブル語でも、新約聖書のギリシア語でも、霊という言葉です。風と、聖霊の「霊」という言葉は同じ言葉です。
風と、炎のような舌が分かれてとどまりました。風と炎は、旧約聖書では神さまのご臨在をあらわす言葉です。まさにこの日、神さまの聖霊、聖霊なる神さまが来られたのです。
聖霊降臨は、かねて主イエスが約束しておられたことでありました。14章から16章、主イエスが十字架にかかられる前夜です。最後の晩餐と、後にいわれることになる食事があって、そこで主イエスがお弟子たちに話された言葉です。
自分は父のもとに帰る、いなくなるが、あなたたちには聖霊を遣わすことを父なる神さまにお願いする。主イエスの約束の通りに、弟子たちに聖霊が降ったのです。
15、16節、あなたがたはわたしを愛しているならばわたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。18節でも、わたしはあなたがたを孤児(みなしご)にはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。
主イエスのお弟子たちは、地上では主イエスと共に交わり、共に歩き、主がいつも一緒におられました。教えを聞き、食卓の中心にはいつも主がおられました。
その主イエスが十字架につかれ亡くなりましたが、ご復活されて、40日の間、お弟子たちと一緒にいてくださいました。
しかし地上の交わりにも終わり、別れが来ました。お弟子たちの心はぽっかりと穴があいたことでありましょう。もう二度とお会い出来ないと思ったのでありましょう。
しかしそうではありませんでした。主イエスは約束されたのです。あなたがたを孤児(みなしご)にはしない。父なる神さまに願ってあげよう。弁護者、真理の霊を遣わすと。そして聖霊、父なる神さまの霊であり、主イエスの名による霊が遣わされ、いつまでもわたしたちは主イエスと一緒にいることになるという、わたしは戻ってくる、一緒にいるという約束が実現したのです。その約束通り、お弟子たちに聖霊が降ったのでした。
そして、お弟子たちは、イエス・キリスト、イエスは主キリスト、救主であることを宣べ伝える者となったのです。いたるところで聖霊が一緒になり、お弟子たちに限らず、世界中主イエスを信じる人々に聖霊がいてくださって、わたしたちも宣べ伝える者とされていると思うのです。
ヨハネによる福音書は、何故、ルカによる福音書と使徒言行録の間に置かれたのでしょうか。ルカによる福音書も使徒言行録も、どちらもルカという人が書いた文章、前編と後編、第1巻と第2巻であることを昔の人は知っていました。
ある先生が、ヨハネによる福音書は聖霊を約束した書だからと言いました。ルカによる福音書という主イエスの生涯と復活後の昇天と、使徒言行録の聖霊降臨の間にヨハネによる福音書は置かれました。ヨハネによる福音書は、聖霊を約束した福音書であったからというのです。新約聖書で一番大事なことは、聖霊のことだったからというのです。
今日ペンテコステ、聖霊降臨日はふたつのことが、一日でふたつのことが起きたと最初に話しました。聖霊の降臨と、教会の誕生という、ふたつのことが起きたのです。ペンテコステの意味は、聖霊の降臨と教会の出発です。
使徒言行録から教会が始まります。それまでは、主イエスのお弟子たちの、小さな群れは教会ではありませんでした。弟子たちは分からなかったのです。まだ聖霊が降っていなかったのです。使徒言行録から、聖霊を受けた教会の時代が始まるのです。弟子たちに、教会は隠されていました。教会を希望していたと言った方がいいかもしれません。
今日の、ヨハネによる福音書14章19節、「しばらくすると世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているのであなたがたも生きることになる。」20節、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることがあなたがたに分かる。」21節、「わたしの掟を受け入れそれを守る人はわたしを愛する者である。わたしを愛する人はわたしの父に愛される。わたしもその人を愛してその人にわたし自身を現す。」
戻って15節、「あなたがたはわたしを愛しているならばわたしの掟を守る。あなたがたも互いに愛し合いなさい。」互いに愛し合うという主の掟を守ることが、聖霊を受けることの条件であると主イエスは教えられました。互いに愛し合うという掟と、聖霊の約束は切り離せないのです。
聖霊の降臨が教会の出発になりました。最初の弟子たちは主イエスを信じる小さな群れ、ユダヤ教の一派にすぎませんでした。聖霊の降臨によってキリスト教が始まりました。教会のキリスト教が始まったのです。父なる神さまの霊と主イエスの霊が降って教会が始まりました。すなわち、聖霊は教会の霊となりました。キリストの体なる教会、キリストそのもの、聖霊の教会の始まりです。
わたしたちは、聖霊によって、イエスは主であると告白し、洗礼を受け、聖霊を内にいただいています。皆、聖霊を持っているのです。
ローマの信徒への手紙8章15、16節、「あなたがたは神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」聖霊によって信じ、キリストのからだなる教会に結ばれ、聖霊によって、救われたことを、神の子であることを確信できるのです。
昔、ある先生が、教会の話が、何を言っているのか、皆さっぱり分からなかったそうです。教会の話をすると、聖霊のことを話すことになるので、私たち人間にはさっぱり分からないというのです。分かりやすく話そうとすればするほど分からなくなったそうです。
聖霊のことは聖霊が証しするといわれます。
ある神学者が、聖霊は自分を隠す神であると言いました。聖霊は人間に住まわれる神さまです。本当に神さまは聖霊というかたちでわたしたちの奥深くに住まわれます。それほど ご自分を隠されるということです。
わたしたちが聖霊になるのではありません。人間と聖霊はひとつにはなりません。いつまでたってもふたつであり続けます。しかしわたしたちの内に住まわれるのです。
聖書は、聖霊ということで、特にキリストの体、すなわち聖霊の住まわれるキリストの体なる教会を言います。見える地上の教会に、聖霊は身を隠すように住まわれるのです。聖書は、教会のことを聖霊の宮といいます。教会につながるわたしたちも聖霊の宮なのです。
聖霊は体ある教会に、わたしたちの体に隠されて住まわれて、わたしたちは、イエスは主である宣べ伝え、世界中のあらゆる民族、国々へ伝えられていきます。福音が、キリストの十字架と復活が、神の国の開始が、永遠の命への道が この聖霊によって語られていくのです。
聖霊降臨日、聖霊のみわざを、わたしたちは、ほめ歌を歌ってたたえます。
今日は、神さまを賛美する新しい人間の出発の日のお祝いでもあります。