ヨハネによる福音書8章12~20節
「主イエスは世の光」
8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
8:13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
8:17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。8:18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
8:19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
仮庵祭は、イスラエルの人々が、荒野を40年の間さまよったことを覚える祭です。
仮の庵は、粗末な木や草で作った、折りたたんで運べることのできる小屋でした。そういう粗末な小屋に住んで、旅をして人々は暮らしたのです。
仮庵祭の時期には、エルサレムの人々は、粗末な昔の小屋を作って、1週間住みました。先祖の苦労を思い出したのでした。
水がない。食べ物ものがない。どこに行こうとしているのか。われわれを荒野で死なそうとされるのですかと。しかし、神さまは民を導かれました。水を岩から出し、朝にはマンナ、夜にはうずらをふらせ民を養いました。行くところ、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導き、神さまは臨在の幕屋に宿り、民の間に住み、行く手を導かれたのでした。
荒野の40年の試練を覚え、人々は、感謝と賛美をもって、また犠牲をささげたのでした。それは、水と火の祭でした。
わたしは世の光であるという言葉は、主イエスがこの仮庵祭のときに人々に言われた言葉です。神殿の婦人の庭、宝物殿があるところで、主イエスが言われた言葉です。
宝物殿は、賽銭、ささげものを置くところです。そして、庭の4隅に、火、たいまつがともされ、エルサレム中から火がみえたそうです。
旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからであるという聖書に由来する祭でした。
このように、祭に火をともされ、夜に、闇に、あかあかと火がともったのです。エルサレムにともし火、たいまつがともった最後の日、主イエスが、わたしは世の光、世の闇の光であると言われたのです。わたしは世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず命の光を持つと言われたのです。
ファリサイ派の人々は、そうでない、真実でないと言うのですが、主イエスは、いや、あなたがたは、わたしを、また父を知らないと言いました。
ファリサイ派の人々は、ユダヤ教の律法主義者です。行いによる救いの確証、行為義認というのですが、行いがすべてでした。自分の力で勝とうとします。努力して、祈って、断食して、施して、神さまの前に義を立てたのです。
行為義認というのは、自分が主人公になります。ですから、ファリサイ派の人々は主イエスが見えなかったのです。神さまが見えなかったといってもよいかもしれません。
わたしが人生の主人公であり、わたしが、世界の主語であったのです。
聖書は、わたしの人生が主語ではなく、神さまのお考え、愛が主語と教えます。聖書が人生のたとえではなく、人生が聖書のたとえなのです。
主イエスは、わたしが世の光である、闇夜にかがやく光、世を照らす光、あの火の柱であると言われました。しかし、ファリサイ派の人々は、そのあかしは真実でないと言い、主イエスは、いや真実である、わたしは知っている、あなたがたは知らないと言ったのです。
問答は衝突し、分断、分裂を生んだのです。
神まとともにあった命は、世を照らす光であったのですが、暗闇にかがやく光を、暗闇は理解しなかったのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1章1~5節)
闇夜を導いた神さまの火の柱である主イエス、主イエスが世の光、闇夜の光です。わたしたちはその光に照らされて生きるわけです。
主イエスのこの光は、十字架と復活の光のことです。
十字架は、わたしたちの罪のために、神さまが立てられた柱、十字架です。罪は闇であり、自分中心、行為義認の生き方のことです。人は、神さまに背いてしまったのです。
罪が赦されるためには犠牲が必要になりました。祭ということの中心は、この犠牲をささげることにありました。
ですから、神さまが、その独り子イエス・キリストを、十字架にささげたときに、わたしたちの罪が赦され、闇が取り払われたのです。
キリストの十字架は、神さまからの無償の恵みでありました。わたしたちの行いや努力ではなかったのです。キリストの十字架は、神さまからのささげもの、わたしたちへの贈物であったのです。
主イエスの光は、主イエスの復活の光です。墓を空にして、主イエスは引き上げられました。復活の光は、死を打ち砕いた神さまの力です。
主イエスは世の光です。わたしたちの罪を赦し、復活の命を開いてくださいました。初めからあった神さまの命を、主イエスが現したのです。
わたしが光であるという、後ろではなく、光の方を、前を向かなければなりません。わたしたちが、主イエスが光と気づいたのではありません。神さまの歴史の、神さまが主語の歴史を、わたしたちは、意味があって生かされているのではないでしょうか。
十字架の赦しと復活の命の光は、常識ではなく、この世の知恵にはないものです。
人間はでこぼこです。大きな、罪人を救おうとされている上からの光、天国から見えてくる光、主イエスの十字架と復活に射した光が見えます。