2021年9月5日(日)聖霊降臨節第16主日 宣教要旨

マタイによる福音書18章21~35節

「仲間を赦さない家来のたとえ」

18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。

18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。

18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。

18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。

18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。

18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

マタイによる福音書だけにある、仲間を赦さない家来のたとえです。主イエスとペトロとの、赦しをめぐるやりとりです。

ペトロが、主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか、7回までですかと、主イエスに問いました。

当時、ユダヤ教のラビの教えでは、兄弟が自分に対して罪を犯した場合、3回までは赦しなさい、しかし、4回目は赦さなくとも良いというものでした。

赦すことは難しいことです。逆に、赦してはいけないことが正義ではないでしょうか。

3度赦すだけでも忍耐のいることですが、ペトロは、赦すのは7回までですかと問いました。気性のはげしいペトロが、忍耐の限界を超えるような質問をしたのです。

主イエスは、7回どころか、7の70倍までも赦しなさいと答えました。

7の70倍というのは、限りなく赦しなさいという意味です。

そして、主イエスは仲間を赦さない家来のたとえを語られました。

仲間を赦さない家来はわたしたちのことです。王様、神さまは、わたしたちを赦してくれています。7の70倍赦してくださっているというたとえです。

マタイによる福音書7章、兄弟の目にあるちりは見えるが、自分の目にあるはりはみえないという主イエスの言葉通りなのです。

たとえは、王様は、家来に1万タラントンを貸していました。しかし、家来は払えなかったので、王様は家来を憐れに思って、借金を帳消しにしたのです。

その家来は、100デナリオン貸していた仲間が、払わないので牢に入れたというのです。

たとえの終り方ですが、王様は、怒って、この家来を牢に入れたというのです。

わたしはおまえを憐れんでやったのに、仲間を赦さなかった。兄弟のちりはよく見えるのに、自分のはりがみえないわたしたちです。自分は莫大な負債を赦してもらっているのに、仲間のわずかな負債を赦せないのです。

何故、十字架が、キリストの十字架が、十字架の愛が見えないのかということでしょう。

主の祈りに、我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえとあります。仲間を赦さない家来のたとえの説明は、主の祈りの説明になります。赦しとは、キリストがどのように教えているかが大事だということです。

わたしたちが自分たちに罪を犯すものを赦しますから、わたしたちの罪も赦してくださいとは、赦すことが条件ということではありません。

聖書の言葉、マタイによる福音書では、わたしたちの負債を赦してください、わたしたちも自分に負債のある人を赦しましたようにと書いてあります。

わたしたちは人を赦しました。だからわたしたちも赦してくださいというのは、なお難しいことです。祈りが止まりそうになるのではないでしょうか。

主の祈りの鍵は、これはペトロに、また弟子たちに教えられた祈りということです。

家来のたとえに重ねると、もう赦した、莫大な負債額であったが帳消しになった、だから赦しなさいとなります。

自分が兄弟の罪を赦すのは、その条件で、自分の罪をも赦してくださいというのではなく、赦されているから赦しますというものです。

実際に、罪を赦すことはなかなか難しいこと、ありえないことかもしれません。

自分の罪を赦していただいた家来は、そのことがわかるならば、仲間も赦せるのではないだろうかと思うのですが、それが難しいのです。

自分の罪の大きさを知るほど、赦されたことを知れば知るほど、人を赦せるのでしょうか。

もっとも困難なことのひとつが、罪を赦すことですので、それは、自分が赦されことを信じることなしには、ありえないことなのです。

赦すという聖書の言葉には、3つの種類があります。覆う、取り除く、贖う、の3つです。

主の祈りと、主イエスのたとえが、赦されていることを深く悟らせます。

罪がなくなるのではないのです。覆われる、あるいは取り除かれる、贖われる、のです。

どれにしても、罪がないのではなく、罪はあるのです。

しかし、罪赦されたことを知っているので、罪を赦すことができる、罪を責めないで赦すことができるのです。

キリストが、莫大な罪を覆ってくださったこと、十字架に取り除いてくださったこと、莫大な負債を払ってくださったことによるのです。

キリストが十字架におかかりになったのは、このことのため、わたしたちの罪のためでした。だから、わたしたちも赦すことができるように、仲間を赦さない家来にならないように祈るのです。

赦すことが難しいので、赦すことが大事なのです。

主の祈りでも、主イエスの家来のたとえでも、罪が負債と言われます。

負債は、具体的に払わなければなりません。負債となると、払わなければ解消しません。解決は、負債を返すことになります。

しかし、人の負債は莫大です。返せないのです。

1万タラントンは、1国の収入以上の額です。主イエスのたとえは、もともと返せない額なのです。

家来と王様は、わたしたちと神さまの関係です。罪は、大きくて返せないのです。

旧約聖書のサムエル記下に、ダビデ王が、部下ウリヤの妻バトシェバを奪うというお話があります。ウリヤを戦争の前線に出し、見殺しにし、バトシェバを妻に迎えるわけです。

ダビデは、神さまの前に罪を犯しました。

詩編51篇に、ダビデの心情が歌われます。わたしはただあなたに向かい、あなたに罪を犯し、あなたの前に悪いことを行いました。

わたしたちの罪とは、人と人との関係のことではなく、神さまに罪を犯したというのです。

ダビデ王は、ウリヤに対して罪を犯したのですが、バトシェバに対しても罪を犯したのですが、ふたりに罪を犯したとは言わず、神さまに向かって、神さまに罪を犯したと言ったのです。

神さまの前で罪を犯したので、神さまに罪を犯したので、重い、莫大な負債が返せないのです。

たとえ話ですが、赦すのは王様です。神さまが赦さなければ、人は赦されないのです。

詩編49篇、まことに人は自分を贖うことができない。その命の価を神に払うことはできない。

自分では、罪を払いきれないのです。

払えるのは神さまだけです。

独り子の十字架の死は、わたしたちの罪のためでした。神さは。罪のない方を罪に定めました。神さまからの犠牲でした。

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