2022年1月23日(日)降誕節第5主日 宣教要旨

マルコによる福音書1章21~28節

「汚れた霊を追い出す」

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。

1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

マルコによる福音書は、主イエスがカファルナウムの町に行き、会堂に入り、教えはじめられたと記しています。そしてそのことが、どんなに恵みに満ちたことであったかを伝えています。

「イエスは、会堂に入って教え始められた」。教え始めるとは、いつもそうなさっていた、そうなさるのが常であった、そしてそのことが始まったということです。

主イエスは普通のユダヤ人と同様に、律法に従った生活習慣の中に身を置いていました。すなわち、安息日には、礼拝をささげるために会堂に入ったのです。

会堂では聖書が読まれ、祈りがささげられます。そして教師たちや信仰深い人々が、聖書の解き明かしをしたと言われています。主イエスもその機会を与えられ、教えたのです。

しかし、主イエスの教えは他の人々とははっきりと違っていました。権威があったと書いてあります。律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えたのです。そして人々は、その教えに非常に驚いたと書かれています。

ここに律法学者とあります。律法学者というのは、聖書を丁寧に読んで、その正しい解釈、説明をすることができる信仰深く学識のある人々でした。

彼らは、決して権威のない、いい加減な人とは違います。権威というならば、カファルナウムの会堂の中で、誰よりも権威を持った人々でありました。

しかし、聖書は、その権威は主イエスの権威とははっきりと違うというのです。主イエスが示された権威は、律法学者のそれとは質の違うことだったというのです。

ある聖書の研究者はこんな説明をしています。主イエスの権威というのは、聖書の真理について、単に説き明かすのではなく、聖書そのもの、聖書の真理そのものであるお方が、それを説き明かす、そういう権威であったというのです。

主イエスは律法学者とは違います。ご自身が権威そのものなのです。しかし、その権威は、ご自身をロウソクの炎のように差し出し僕として仕えてくださった、そのような権威であられたと聖書は記しています。

「権威ある者」、「権威そのもの」、それが主イエスでありました。それで、その教えに、人々は非常に驚いたのです。

主イエスは会堂に入って教え始められました。いつも教えている、この礼拝に主は入って来られ、教えてくださっている。そういうことを受け止めて、聖書を読んだに違いないと思います。この礼拝に主がおられるのです。

さて、会堂に汚れた霊に取りつかれていた男がいて、主の教えはその人を解き放ち、自由にしたというのです。

まず汚れた霊に取りつかれていた者が叫び始めたと福音書は記しています。

「叫んだ」と書かれているので、「汚れた霊に取りつかれた男」というのは狂乱、激しく取り乱してしまう、そういう狂乱状態を伴う病気を背負っている人だという解釈がなされます。

あるいはそうだったのかも知れません。しかし、必ずしも病気と決めてかかる必要はないと思います。神さまの祝福からわたしたちを離れさせようとする何ものかに捕らえられてしまっている、わたしたちを支配し、自由を奪い、魂に病をもたらすもの、それを「汚れた霊」と呼んでいて、その悪しき霊に取りつかれてしまっている、そう理解することもできます。

いずれにしても、「汚れた霊に取りつかれた男」は、礼拝の場所、会堂にいました。

このことは、ある意味では恐ろしいことかも知れません。神さまを礼拝する場所、礼拝するために招かれた者たちのただ中に、礼拝を阻止しようとする霊、魂に病をもたらそうとする悪しき霊が取りついているということだからです。

しかし、聖書はそういうセンスでこのことを語ってはいません。それは決して恐ろしいことではない、かえって喜ばしいこと、祝福に満ちたこととして語っているように思います。

考えてみますと、わたしたちは誰でも、自由を奪ってしまうもの、自分を支配するものに取りつかれているのではないでしょうか。

時代精神というか、その時代が持っている思想や観念が、わたしたちを支配しています。それは必ずしも悪いとは言えません。しかし、それを克服しなければならない時もあるのです。

あるいは、自分に利益をもたらすもの、そのしがらみがわたしたちを支配します。

しかし、そのような者たちが礼拝の場所に招かれている、会堂に来ている、そこに場所を見いだすことができている。そういう喜ばしい出来事として、聖書は、汚れた霊に取りつかれている男が会堂にいたということを伝えているように思います。

そしてもっと喜ばしいことが安息日に起こったのです。

汚れた霊は「叫んだ」と書かれています。それは、必死に、徹底的に抵抗して声を上げるということです。

ここで「叫ぶ」と翻訳されている元の言葉は、実は珍しい言葉で、新約聖書に5回しか用いられていません。

場面としてはたった3カ所です。一つは今日の物語です。

もう二つは、嵐の夜、湖を歩いて近づいて来た主イエスの姿を見て、風と波に翻弄され、不信仰に捕らえられてしまっていた弟子たちが、「叫んだ」という場面です。

そして最後に、十字架を前にして、主イエスがピラトのもとで裁判を受けられた時に、犯罪人の一人が赦されることになっていたのですが、人々は罪のない主イエスではなく、バラバという犯罪人を釈放するように要求して、「バラバを、バラバを」と叫んだ、その叫びです。

人々は、冷静さをまったく失っていて、理不尽な、道理にかなったことを選び取ることができない、狂気の沙汰としか言いようのない叫びが上がったのです。それが最後の場面です。

「叫ぶ」というのは、汚れた霊が、必死に、徹底的に抵抗して声を上げている様子を伝えています。

密かに、隠れて、安心して、この男を捕らえ、支配していたのに、その安全が脅かされてしまったので、思わず「叫ぶ」のです。

主イエスの教えが、「汚れた霊」に正面からぶつかっていきます。

彼は叫んで、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言ったと書かれています。

聖書は、汚れた霊は確かにわたしたちを捕らえるかも知れない。しかし、それとて主イエスを恐れているのだ、主を嫌っており、できることなら避けたいと思っている、主イエスが「神の聖者」、「神さまの子」であり、自分たちを滅ぼすことができる、権威を持っていることを知っているのだと、そう語っているのです。

主イエスは、「黙れ、この人から出ていけ」と叱りました。汚れた霊は追い出され、その霊に取りつかれていた人は解放され、自由になりました。

そのような、まことに喜ばしい出来事が、主イエスのいる、安息日の会堂で起ったのです。

この出来事を見ていた人たちは、皆驚いて、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と言って、論じあったと書かれています。

「驚き」、それは偽りの平和の中に安んじていた者が、もはやそこにいる必要がなくなった、うち砕かれ、揺り動かされ、恵みに圧倒されて、神さまの前に引き出されたということです。

このように、主イエスの教えは、新鮮に、汚れた霊を追い出し、わたしたちの扉を開きます。恵みから恵みへ、信仰から信仰へとわたしたちを導いてくださるのです。

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