2022年6月5日(日)聖霊降臨節第1主日 聖霊降臨日(ペンテコステ) 宣教要旨

マルコによる福音書4章26~34節

「成長する種のたとえ」

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

日本基督教団信仰告白の第3段落、義認と聖化の文章です。

「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したもう。」

このように、聖霊の働き、聖霊の潔め、義の実の結実が告白されます。

信仰によって義とされる信仰義認と、それに加えて、聖霊による果実、聖化が言及されるのです。

主イエスのたとえ話です。わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。ぶどうの幹であるキリスト、枝であるわたしたち、つながっていることの大切さがたとえられます。つながっていることで実が結ぶからです。

つながりがなくなると枝は枯れてしまい、火に入れられます。

そのたとえ話の中で、父である農夫は木を手入れなさるという言葉がでてきます。この手入れは、剪定のことをあらわします。そして、この手入れが、清いという意味なのです。

わたしたちは、キリストの枝としてつながっています。そしてさらに手入れをしてくださり、清くしてくださり、良い実がむすぶようにしてくださるというのです。

聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめとあるように、聖霊によるわたしたちの潔め、義の実の成就ということが、キリストにつながっていることで実現するのです。

ペンテコステの聖書は、マルコによる福音書の、主イエスの神の国のたとえ話です。成長する種のたとえ、からし種のたとえ、たとえを用いて語るという箇所です。

人が土に種を蒔くと、芽を出して成長します。どうしてなのか、人は知りません。土がひとりでに実を結ばせるのです。

だまっていても実がむすぶのではなく、ひとりでに、実が結ぶのです。

茎がでて、穂が出て、実ができ熟し、かまをいれ収穫します。

からし種のたとえは、成長の不思議のたとえです。

いちばん小さいものの代名詞、からしの種が蒔かれると、どんな種より小さいが、成長して、大きくなり、葉の影に鳥が巣をつくるほど枝が大きくなります。

驚くほどの成長です。これは、神さまの働き、すなわち神さまの力、聖霊の働きが義のみを結ぶのです。

わたしたちは、キリストに罪を赦されました。キリストの十字架が罪の赦し、救いです。その恵みのうちに、聖霊はわたしたちを潔め、手入れをされます。どうしてそうなるのか、わかりません。見えないのだけれども、成長させてくださり、枝がはり、実を結ぶのです。

義の実、聖霊の実は、ガラテヤ書の5章で、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法は無いとあります。

わたしたちに実が実るのは、完成している実でなくて、聖霊の実が実る途上にあります。

パウロは、コリントの信徒への手紙一15章で、聖霊の最大の実は愛であると記しました。愛は、霊的な最大の賜物のことです。すなわち復活のことです。

あなたが蒔くものは後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれただの種粒です。神は御心のままにそれに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも力強いものに復活するのです。

つまり、自然の命の体が蒔かれて霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから霊の体もあるわけです。

キリストの体なる教会の、わたしたちは手足です。

わたしたちは霊的な実、復活のキリストにあずかります。

からし種のたとえのことです。種を人は土に種を蒔いたとたとえます。成長の不思議をたとえます。

今、いつの時代もそうであったように、不安定、行き詰まりの時代です。

ウイルスに、人は、人の心もむしばまれている時代ではないでしょうか。

先が読めないのです。

教会を考えることは、すべてのことを、自分の人生を考えることであるとは、カール・バルトという人の言葉です。

教会のいろいろな課題、たくさんある現代的な課題を考えることが、自分の人生、世の中のことを考えることにつながるというのです。

神さまは。わたしたちの罪を赦してくださり、そして聖霊は、わたしたちを完成してくださるのです。

五旬祭の日が来て一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

五旬祭は、大麦の収穫の祭り、小麦の初穂の祭りでした。収穫の終りであり、初穂の始まりでした。

そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままにほかの国々の言葉で話しだした。

聖霊降臨は、霊による言葉の奇跡です。使徒言行録は、言葉による宣教がはじまった、世界中にキリストの教えが伝わるようになったことを記します。

心は熱くなります。聖霊がくだると、聖霊は心を熱くします。

ルカによる福音書で、エマオに向かうキリストと弟子たちは、復活のキリストが聖書を説明してくれた時、心が燃えたと書いてあります。

あらゆる言葉でキリストを宣べ伝えていったのです。

からし種のたとえですが、種を人は土に蒔きました。

マルコによる福音書は成長の不思議をたとえます。

マタイによる福音書では、畑にまいたと書いてあります。

ルカによる福音書では、庭にまいたと書いてあります。

どうしてでしょうか。土に蒔くも畑に蒔くのも、庭に蒔くのも同じかもしれません。それは、土は庭の畑であったかもしれません。

わたしたち、成長する実が、わたしたちの土に、畑に庭に蒔かれているのです。

わたしたちぶどうの枝に聖霊がくだり、聖霊に導かれるのです。わたしたちを、驚くような、不思議な、完成に導いてくださるというたとえだと思います。

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