2022年2月20日(日)降誕節第9主日 宣教要旨

マルコによる福音書2章1~12節

「中風の人をいやす」

2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。

2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

カファルナウムのペトロの家です。そこに主イエスが来られ、四人の男が中風の人を連れてきました。

中風というのは、体の不自由な状態の症状です。

彼らは、家の屋根をはがし、穴をあけ、病人の寝ている床をつり下ろしたのです。

そうすると、主イエスは、その人たちの信仰を見て、中風の人に、子よ、あなたの罪は赦されると言われたのです。

そこに、律法学者が数人座っていました。罪を赦すとは何ごとか、神さまを冒涜していると言い始めたのです。

論争が始まりました。

病気と罪の因果関係ですが、当時の人々は、つながりがあると考えていました。

ただあらゆる病気が、罪と関係するわけではありません。ヨハネによる福音書第9章です。目の不自由な人に主イエスは言われました。この人が、生まれつき目が不自由なのは、本人のせいでもなく両親のせいでもない。神さまの栄光が現れるためだと。

病気や障害は、神さまの恵みを知る入り口になると言われたのです。

中風の人のいやしですが、その四人の友人の、主イエスはその人たちの信仰を見て、あなたの罪は赦される、あなたはいやされると言われました。

神学的には、代理信仰と言います。中風の人の本人の信仰ではなく、友人の信仰が認められたのです。

信仰は、ここでは希望と言い換えることができます。

ケルケゴールは、死に至る病を絶望と言いました。絶望、望みをなくしてしまったことが死に至る病、いちばん恐ろしい病というのです。

信仰は、希望は、この絶望の対極です。

主イエスに出会った人々は、この希望を持つことができたのです。あなたは愛されていると、あなたは価値があると、あなたは赦されていると、あなたはいやされていると、希望を持つことができたのです。

代理信仰ということを話しましたが、自分も受けたことを、主イエスに救われたということを、この人も救われると信じたということです。

このように、中風の人のいやしの話は、伝道の話になります。

次に重要なことは、この話はいやしの話なのですが、赦しの話、罪の赦しの話になっているということです。

主イエスと中風の人、また律法学者たちとのやりとりで、実際にはいやされるのですが、主イエスは、あなたの罪は赦されたのだと言われたからなのです。

罪の赦しは、神さましかできないことでした。それを、主イエスがなさったのです。

しばしば、健康を、肉体的健康、精神的健康、社会的健康ということがあります。肉体と精神、体と心、社会的健康、そして、それに加えて霊的な健康ということがあります。

健康は、見えない神さまとの関係、霊性が関係するというのです。

体と心と霊は、聖書の人間理解です。「体」はその人が他者と区別された一人の人間として他者(世界)と交わる機関、「心」はその人自身、その人の人格の中心となる部分、「霊」は人格の最深部に属し、神さまと交わる部分です。神さまとの交わり抜きには、心も体も考えられないというのが聖書の見方なのです。

神さまとの交わりとは、神さまは、天地の創造主であるということです。その創造には目的がありました。神さまの主権、義、知恵、力、愛によって、造られたものを治められたのです。

統治を「神の国」あるいは「天国」、世界とわたしたちは造られたもの、造られたすべてのものは神の国に向かうようにと意図されたのです。神さまとの交わりとは、わたしたちが神の国に向かうようにと招かれているということです。

霊性とは、神さまとの交わりにおいて、わたしたちの内に生じる霊的な性質のことです、

霊性とは、神の国に向かうものの内に育まれる霊的な性質です。

中風の人のいやしの話に戻りますが、その人の信仰を、友人の信仰を見て、主イエスは、この人の心も体も、霊もいやされたのでした。

 この様子を見た律法学者たちは、罪が赦されるとは何ごとだろうか、神さまを冒涜していると思いました。

罪を赦す権能は、一部の選ばれた人には与えられていました。しかし、赦すのは神さまであり、そして、赦しの宣言は祭司職の仕事でした。

律法学者たちは、主イエスは罪を赦すと言われるが、どこにその権威があるのか、権威は神さまの他にないと思ったのです。

9節の主イエスの質問、反論です。あなたの罪は赦されると言うのと、起きて床を担いで歩けと言うのとどちらがやさしいか。

罪は赦されると言う方が難しいのです。

人は、罪人を罰することはできても、赦すなどと言うことはできません。罪がなくなるということを容認できないのです。

あなたの罪は赦されるというのは、本当には、人間にはできないことなのです。

主イエスは、わたしたちの体も心もいやしてくださいます。さらに、特に、あなたの罪は赦されると言うのは、十字架に死なれた神さまの御子の宣言です。主イエスこそ、罪を赦すことのできる方、まことの神、神さまを現した方なのです。

主イエス・キリストは、十字架に死なれた神、わたしたちの救い主です。

マタイによる福音書8章です。「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは預言者イザヤを通して言われたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」」

主イエスは、わたしたちの患いを、病を負ってくださいました。すなわち、わたしたちの罪を負ってくださったということです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加