2022年9月4日(日)聖霊降臨節第14主日 宣教要旨

マルコによる福音書2章13~17節

「レビを弟子にする」

2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。

2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。

2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

徴税人レビが主イエスの弟子になる話です。そして、レビの家で、多くの徴税人や罪人、また弟子たちと一緒に、主イエスは、食事をしたのです。

徴税人は、言うまでもなく税を徴収する仕事です。徴税人レビは、カファルナウムの通行税を徴収する仕事でした。

彼はユダヤ人で、徴税所の中では下役でした。

徴税人は、ローマ帝国の手先と見られていました。いくら徴収するかと、裁量があり、税の手加減をしたり、また逆に、中には私腹をこやす者もいたのです。そのため、同朋のユダヤ人からは嫌われていました。

徴税人は、罪人、神さまの救いの外にある者とみなされていました。評判の悪い職業です。実際に、罪人呼ばわりされていたのです。

徴税人レビが弟子となる様子は、先に四人の漁師たちが弟子になった聖書の報告の仕方と同様に、簡素です。

レビがどういう人であったとか、その時どうしていたとか、どう感じどう思ったとかは記されていません。

主イエスは、収税所のそばを通りかかります。レビは座っていました。わたしに従いなさいと主イエスが言って、彼は立ち上がり主イエスに従ったと、それだけです。

主イエスが声をかけ、レビは従ったのです。

先に、主イエスに従った漁師たちは、主イエスと接点がありました。彼らは、洗礼者ヨハネの弟子であったかもしれません。また何人かは、主イエスの親類であったかもしれません。しかし、おそらく、レビの場合は、見ず知らずの者であったでありましょう。

カファルナウムの町は、主イエスのガリラヤ伝道の拠点でした。ペトロとアンデレの家がありました。主イエスが何度も通った町です。その収税所に徴税人レビがいたのです。

仕事の面白くなさ、同朋であるユダヤ人への負い目がありました。そこに、評判になりつつある主イエスが現れたのです。

主イエスとレビの間には、何がしかの接点があったのかもしれません。出会いには、何がしかのいきさつがあったのかもしれません。しかし、聖書は、従いなさいと主イエスが声をかけ、レビは従ったとだけを記すのです。

主イエスの弟子、主イエスの追従者の社会層が話題になります。

ある人たちは、主イエスの弟子たち、追従者、その後の帰依者たちは、社会の最下層の人々が中心であったかもしれません。

ある人たちは、案外、当時のテクノラート、技術者たちが、優秀な人々が中心を担ったという意見もあります。

このように、正反対の見方、議論があります。

実際には、いろいろな人がいました。漁師たちは、尊敬されていたわけでもありませんが、蔑視されていた職業でもありませんでした。

漁師たちは、無学な普通の人であったと、使徒言行録には記されています。特別な教育を受けたわけではない、普通の人でした。

いえ、魚をとるのにも知恵がなければなりません。優秀な人もいたのでありましょう。

ゼベダイの家、ヤコブとヨハネの家は、舟と雇い人もいる裕福な漁師でした。

罪人たちが集まったレビの家で、主イエスと、徴税人たち、弟子たちが一緒に食事が始まります。

潔癖主義者のファリサイ派の人々が、どうして一緒に食事をするのかと、何度もくりかえされる疑問をぶつけます。

罪人が集まったというよりは、自分たちは罪深い者であることを、次第にわかるようになり、主イエスについて行くようになったのです。

遊女や徴税人たちのことです。

罪と病気、罪人であることと病気であることは、つながりがあると一般に考えられていました。

罪人であること、病人であることは、政治的、社会的、宗教的疎外がありました。彼らは、家族のつながりも失い、見捨てられたのです。

罪人と一緒に食事をする主イエスに、ファリサイ派の人々が不信をつのらせたことは、ある意味では当然の反応でした。

主イエスの最後の言葉です。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

医者を必要とするのはというのは、当時の格言です。医者を必要とするのは病人です。丈夫な人は医者を必要とはしていません。

わたしが来たのはとは、主イエスのお考え、神さまのお考えとはということです。

正しい人は、ファリサイ派の律法学者のことです。罪人は、主イエスと一緒に食事をしていた徴税人、罪人、弟子たちのことです。

これは、主イエスの招きの言葉です。主イエスが来られたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

ファリサイ派の人々と、主イエスの回りに集まってきた人々は対称的です。

ファリサイ派の人々は、自分たちが正しいと思っていました。罪びとたちは、自分たちが罪深いと知っていました。

正しい人と罪人の違いはそれだけです。自分が正しいと思っている、自分は罪人であると知っている、その違いだけです。

主イエスは、罪人を招くために来られました。主イエスの言葉は、そのまま、主イエスのお考えであり、すなわち、神さまのお考えでした。

すべての人は罪人であるとは、パウロの言葉です。神さまの前には、人は小さい存在です。罪深い者なのです。

ただ、わたしもあなたも罪人と、お互いを決めつけることではありません。人は、自分が罪人であることを知っていればいいのではないでしょうか。

主イエスは、わたしたちを招いてくださっています。

主イエスは、人々から嫌われていた人たち、困っていた人たち、見捨てられた人たち、孤独な人たちを、一緒に食事をしようと呼んでくださり、交わりの時をすごしてくださいました。

主イエスを信じ、悔い改めて、主イエスに従う人たちを増やしていったのです。

教会は、この世にあって、主イエスに招かれた者の群です。この世は、罪深いのです。しかし、教会は、特に自分たちが罪深いことを知って、赦されたことを知っている群なのです。

誰もが、わたしに従いなさいと、主イエスに招かれているのです。

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