2023年3月26日(日)復活前第2主日・受難節第5主日 宣教要旨

ルカによる福音書20章9~19節

「ぶどう園と農夫のたとえ」

20:9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。

20:10 季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を出させようとした。ところが、農夫たちは、その僕を袋だたきにし、から手で帰らせた。

20:11 そこで彼はもうひとりの僕を送った。彼らはその僕も袋だたきにし、侮辱を加えて、から手で帰らせた。

20:12 そこで更に三人目の者を送ったが、彼らはこの者も、傷を負わせて追い出した。

20:13 ぶどう園の主人は言った、『どうしようか。そうだ、わたしの愛子をつかわそう。これなら、たぶん敬ってくれるだろう』。

20:14 ところが、農夫たちは彼を見ると、『あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と互に話し合い、20:15 彼をぶどう園の外に追い出して殺した。そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。

20:16 彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

20:17 そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が/隅のかしら石になった』と書いてあるのは、どういうことか。20:18 すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。

20:19 このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬が自分たちに当てて語られたのだと、悟ったからである。

 主イエスの地上の生涯が終わる数日前のことです。エルサレム神殿の中で、そこで責任を持つ人々、すなわち、祭司長、律法学者、長老たちに向かって、主イエスはたとえ話を語りました。

 わたくしたちの聖書は、このたとえ話を「ぶどう園と農夫のたとえ」と名付けています。

イスラエルの神さまとイスラエルの人々、ぶどう園とその農夫、神さまのぶどう園は、しばしばたとえられたことです。

 神さまは、ぶどう園のご主人は、ぶどう園を農夫たちに貸して、長い旅に出ました。こういう借り貸し、地主と小作の関係は、当時、周囲にしばしばあったことです。

 「ぶどう園」は、神さまに愛された人々、聖書で言うイスラエルを指します。神さまの前に召し出され、特別に神さまに仕えて生きるようにと選ばれた人たちのことです。

 実は、旧約聖書イザヤ書5章の言葉をなぞるように、このたとえ話は語り始められています。昔、預言者イザヤは、神の民イスラエルをぶどう園にたとえて、そのぶどう園が実りをもたらさないという悲劇を語っていました。

 しかし、主イエスのたとえ話は、そのぶどう園が不思議な収穫の時を迎えていることを語り伝えます。

 「ぶどう園の主人」。それは、言うまでもなく、父なる神さまを指しています。

 「農夫」が登場します。「農夫」とは、イスラエルの指導者たちのことです。神の民を代表する人々です。主人にぶどう園の世話を委ねられました。主人が戻ってくる時まで、彼らはぶどうを育て、収穫に立ち会い、それを刈り取るのです。

 ところが、この農夫たちは、収穫の時になって、主人が収穫を受け取るために遣わして来た僕を、こともあろうに、袋叩きにして空手で追い返したり、侮辱を重ねたり、殺したりしました。

 収穫のときになったので、それを取りに僕が遣わされる。年貢を納めなければならない。

 このことは、神さまとわたしたちの世界のたとえです。持ち物は借り物です。預かっているにすぎません。収穫をお返ししなければなりません。深い意味があるのです。

 農夫たちは、遣わされたご主人の僕を次々と追い返します。袋叩きに、侮辱し、傷を負わせて返します。

 主人の遣わした「僕」たち、苦難を受けた「僕」たちは、イスラエルに現れた預言者たちのことを指しています。

 イスラエルの歴史です。イスラエルは、神さまの遣い、預言者に聞こうとしないのです。

 そして最後に、ご主人は、自分の愛する息子、主イエス・キリストを、この子ならたぶん敬ってくれるだろうと思い遣わします。しかし農夫たちは、これは跡取りだ。殺してしまおう。財産は自分たちのものになると考えたのです。

 ぶどう園の外は、エルサレム郊外、ゴルゴタの丘を暗示します。外にほうりだして殺してしまうということです。

 主イエスのたとえ話を聞いていた人々は、そんなことがあってはなりませんと言いました。

 主イエスは、それはそうなる。しかしそれは、家を建てる者の捨てた石、イスラエルが捨てようとした石、すなわち、キリストの十字架の死を暗示するのです。

 十字架の死が隅の親石。建物、世界、ぶどう園、人生のかなめの石になったのです。

「愛子」という言葉によって、主イエスご自身のことが語られています。繰り返し、預言者たちを拒絶したイスラエルに対して、神さまはなお、愛する独り子をお遣わしになるのです。

 ところで、このたとえ話をわたくしたちは注意深く読む必要があります。

 読み違えてはならないこと、また、さらに、思いを沈めて聞き取らなければならない大切なことがあります。

 まず、一つは、気をつけなければならないことです。注意して、読み間違えないようにしなければならないことです。

 それは、この譬え話は、わたしたちに、わたしたちがイスラエルの指導者たちを非難しはじめることを求めていないということです。

 ここに登場する農夫たち、それは、神さまの前で明らかになる、すべての人間の罪を映し出しているということです。農夫は、わたしたちのことでもあるのです。

 そして、主イエスは、ご自分を捕らえて十字架に渡そうとしている人々の愚かさを指摘していますが、しかし、そのような者たちのために、ご自分をお与えくださったのです。

 心に留める、二つ目のこと。それは、このたとえ話の中で語られる、収穫を迎えた時についてです。

「収穫の時になったので」と記されています。ここに用いられる時を示す言葉、それは、特別な言葉です。

 この福音書の扉を開くような大切な言葉ですが、主イエスの次のような言葉が記されていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 神さまのご支配の時が来た。神さまを信じ、その喜ばしいおとずれに身を乗り出して、生きて良いのだ。そう言われたのではないでしょうか。

 満ちる時、それは、このたとえ話では、収穫の時です。そして、物語は、収穫の時へと向けられ、その時に至り、その時の中で、繰り広げられています。

 ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てたと記されています。搾り場、それはぶどうからぶどうの汁を搾る場所です。見張りのやぐらは、収穫の作業を見届ける場所でありましょう。すでに、収穫の時のために準備が整えられています。それを、整えたのはぶどう園の主人、父なる神さまです。

 「収穫の時になったので、ふどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った」と記されています。

 主人はそんなに近いところには居ないはずです。遠くにいるはずなのに、繰り返し、繰り返し、僕を遣わしています。どれだけの時が過ぎたことでしょう。

 わたしたちの常識では、収穫の時期というのは、一年の中でも、ほんの短い期間です。しかし、このたとえ話では、いつも、収穫の時なのです。いつまで、それが続くのだろうと思えるほどに、その時の中で物語は推移しています。

 このたとえ話は、わたしたちが、神さまの収穫の時に生かされているということを教えているのだと思います。

 そのことに気づいて、生きるようにということでありましょう。

 三つ目のこと、それは、わたしたちは、収穫という喜ばしい時を、農夫のように、主人である神さまに仕える僕として生きるものなのだということです。

 もしかしたら、わたしたちは、自分が自分の人生の主人である、自分の時を治めるものだと思っているかもしれません。しかし、それがどんなに貧しいものであるか、主イエスは、たとえの中に登場する農夫の姿を通して、描き出していてくださるように思います。

「ぶどう園の収穫を受け取るために」とありますが、多くの英語の聖書は、これを「ぶどう園の収穫のシェアーを受け取るために」と翻訳しています。

 主人が遣わした僕は、収穫の全部を奪い取るために遣わされてきたのではありません。収穫の喜びを共に分かち合うために遣わされて来たのです。

 ふどう園の支配者でいたい、それを自分たちのものとしたいとする農夫たちは、喜びを分かち合うことを知らない貧しさに生きているのです。収穫の時の豊かさを知りません。

 きわめて単純なこと」という題の文章です。

「神はわたしたちに恵み深くいてくださいます。わたしたちはそれに値しないのです。しかし、神はそのわたしたちを引き受け、わたしたちの救い主でいてくださるのです。」

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