2020年8月16日(日)聖霊降臨節第12主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書7章25節~31節

「この人はメシアか」

7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。

7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。

7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」

7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。

7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」

7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

ヨハネによる福音書7章は、仮庵祭が舞台です。

エジプトを出たイスラエルは、40年の間、仮の庵、すなわち、テント生活を続けました。移動式の住まい、仮の住まいの生活を、神さまに導かれて旅をしたのです。

この人はメシアかというお話です。

ヨハネによる福音書には、数々のしるしを見せた主イエスのお姿が記されています。

カナの結婚式で、水をぶどう酒に変えたしるしに始まり、役人の息子を生かし、ベトザタの池では、38年間病気で苦しんでいた人をいやしました。

病人を起き上がらせ、5つのパンと2ひきの魚で5000人の人を満腹させ、荒れた湖を歩いて弟子たちの船に乗り込んだ主イエスでした。

人々は、主イエスを殺そうとねらっています。しかし、人々が殺そうとねらっているにもかかわらず、主イエスはエルサレムに来て、公然と話をします。

ねらっている人々は何も言いません。議員たちは、この人がメシアだということを本当に認めたのだろうか。何も言わないので認めたのだろうかといぶかしがっているのです。

しかし、わたしたちはこの人がどこの出身かを知っている。ガリラヤのナザレの出身だ。メシアが来られるときは、どこから来られるか、誰も知らないはずだというのです。

メシア、すなわちキリストがどこに現れるかということは、ユダヤ人の関心、期待でありました。

マタイによる福音書2章では、ヘロデ大王といわれるユダヤの王が、東から来た占星術の学者たちに、メシアはどこに生まれるかと聞いています。王ではなく、メシア、救主はどこに生まれたかと聞いたのです。学者たちは、それはユダのベツレヘムと預言者が書いていると答えました。ヘロデは、そのことをもっと詳しく知りたいと言いました。すでに、幼児を殺そうと考えていたのです。

メシアは、ヘブライ語で油注がれた者という意味の言葉です。王や預言者、祭司が立てられるとき、イスラエルの人々は、その人に油を注ぎ祝福し、聖別しました。

特に、サムエル記上16章、ダビデは、サムエルから油を注がれて王に立てられます。王は、イスラエルを取りまとめる者、神さまのご支配を託された者でした。王こそ、メシア、油注がれた者として、人々は仕えたのでした。

ダビデの王位がとだえると、ペルシャ時代、ギリシャ時代、ローマ時代と、イスラエルは国の主権を失い、暗闇の中をさまようようになります。

 しかし、イスラエルの人々は、エッサイの根からダビデの王位を再興する者が現れる、国を救う者がかならず現れると、メシア待望をいだいていました。「民衆は救主の現れることを待ち望んでいた」(ルカ3章15節)のです。メシアの出現を期待していたのです

 キリストが、油注がれた者という意味、メシアのギリシャ語訳です。

ただ人々が待ち望んだのは、ダビデのような王、政治的メシアでした。国を、ローマの圧政から解き放つメシア、救主の出現を待ち望んでいたのです。

しかし、神さまが遣わそうとされたメシアは違いました。イザヤ書53章に予言されたような、みるべき姿も無く、その姿は、神さまに打たれたとも思われる姿、病いを負い、傷を負い、打ち砕かれ、ほふり場に引き行かれる小羊のように、もの言わず、みじめなメシアであったのです。

十字架に、人の罪を代わりに負われたメシアは、神さまの独り子であったのです。

犠牲というのは人の世界にもありますが、神さまの犠牲は、ご自分の子を、わたしたち罪人のために、神さまにさからう者たちのためにこそ差し出された犠牲でありました。

罪とその結果の死に反して、わたしたちに命を開くために独り子の死が必要だったのです。

人間の考えではない、神さまのわたしたちへの深い 隠された愛があったのです。

その主イエスを殺そうとねらっている者たちがいました。政治的メシアの出現を待ち望んでいた群衆も同様です。

実際、主イエスの死後、民衆の期待感、抑えられていた鬱々とした気持ちが実現します。政治的なローマへの反抗が起きます。ユダヤ戦争といいます。しかし、西暦70年、反乱軍は徹底的に弾圧され、エルサレムは陥落してしまいます。

人々が考えている姿とは違ったメシアを、神さまはわたしたちに示されました。そのために、人々はこの方はメシアだろうかと、見極めることができなかったのです。逆に、この方を殺そうと思い、十字架にかけることになるのです。

メシアは現れました。歴史の相克の中で、ローマ帝国の属国であった、イスラエルの都エルサレム、世界史のなかでは片隅でしかないエルサレムに現れました。聖書的意味では、エルサレムはダビデの都です。そこで、救主、メシアの死という形で人の救いが実現されたのです。

メシアの十字架と復活によって、天の扉が開かれました。人々が期待した形ではありませんでした。人々が想像していたような形ではありませんでした。十字架の死というのが神さまのお考えであったのです。

そういう人々の殺意、思惑、不信の中で、主イエスは、このとき仮庵祭の神殿の境内で教えておられました。大声で、あなたたちはわたしを知っており、どこの出身かも知っている。わたしは、あなたがたが思っているようにではなく、わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。わたしはその方を知っている、わたしはその方のもとから来たものであり、その方がわたしをお遣わしになったのであると言われたのです。

主イエスがメシア、キリスト、救主であると信じることは、人間の考えでできるわけではありません。神さまのお導きによることです。

聖書は、聖霊によらなければ誰もイエスは主であると言うことができない(1コリント12章3節)と書いてあります。信仰は、神さまのお導き、神さまのお働きです。ですから、すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子であるのです。

 あなたがたは子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ父よ」と呼ぶのです。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることを証して下さるのです。

わたしたちも霊の人になって、神さまの霊と共に主を告白するのです。

 このときは、あなたがたはまだ知らないと主イエスは言われました。後で、主イエスが、どこから来てどこに行くのか知っていると、はっきり言っている箇所があります。

 ヨハネによる福音書の14章です、弟子たちに、心を騒がせるな、神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。

7章は、仮庵祭が舞台であると最初に話しました。イスラエルは、荒野を40年の間、テントを立て、移動式の住まい、仮の住まいを、神さまに導かれて旅をしました。

わたしたちの生活も、仮の住まい、仮の体です。仮の住まいがすべてです。この弱い肉体に心が、仮住まいしているのです。

しかし、この仮住まいに、キリストがいてくださいます。教会を、荒野のイスラエルを、臨在の幕屋で、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、神さまは行く道を示してくださいました。

信仰の父アブラハムは、行く先々で、住むところどころで、祭壇を築いて、主を礼拝しました。祭壇を、石を積んだり、組んだりして、聖なる場所を築きました。

わたしたちの教会も祭壇です。また、日々、どこでも、わたしたちは祭壇を築き、神さまを礼拝して、祈って生きるのです。祭壇の象徴である、主イエスがメシア、キリストですと信じて生きると言うことではないでしょうか。この方がメシアであると信じて生きるのが、人間本来の生き方だと思うのです。

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