2021年10月24日(日)降誕前第9主日 宣教要旨

マルコによる福音書7章1~7節

「昔の人の言い伝え」

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。

7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。

――7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』

エルサレムから来たファリサイ派の人々と数人の律法学者たちと、主イエスとの、昔の人の言い伝えについてのやり取り、論争です。

主イエスの評判は、人づてに広まり、都エルサレムにも、主イエスのことは評判になりました。

エルサレムの、ファリサイ派の人々や数人の律法学者はほうっておけません。

今日の箇所、7章1節、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがエルサレムから来て、イエスのもとに集まった」のです。

エルサレムから来た人は、そこで、またとんでもないことを目撃するのです。弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で 食事をする者がいたのを見るのです。

この人たちは、主イエスに、5節、「なぜあなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と猛烈な抗議をしました。

3節、4節は、その説明です。ダッシュにくくられているところです。「 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――」

主イエスは反論します。6節からを要約しますと、「あなたがたは神さまの本当の教えを無にして、人間の言い伝えばかりを重んじている偽善者だ。」

厳しい反論です。

3節、4節の説明にもどりますと、なぜ、彼らが手を洗うという儀式に、これほどこだわったのかのかがわかります。儀式的に、少し、手に水をつけてから食事に入るのですが、こだわったのは、食事が、神聖な事柄と考えていたからなのです。

飲食一般は、単なる食事ではなく、神さまの恵みにあずかる大事な事柄と考えていたからなのです。

わたしたちの教会でも、主の聖餐式に共にあずかります。パンと葡萄酒の恵み、主の食卓にあずかることは、聖礼典、聖なる事柄にあずかることです。

そうでなくとも、ユダヤの人たちは、食事そのもの、日々の食事を、感謝をもっていただきました。祈って、毎日、毎食をいただきました。

神さまは、わたしたちを養ってくださる。神さまは、わたしたちに蛇ではなく魚を、石ではなくパンを与えてくださいます。イスラエルの歴史は、聖なる恵みの歴史でした。感謝の、聖なるいただきものですから、手を洗って、清めて食事をいただいたのです。食事の前の手洗いの儀式は、どうでもいいことでなかったということです。

食事の感謝は、神さまの命とのつながりで、位置づけられていたのです。

このように、ユダヤ人は、食事の前に、洗いという儀式、昔の人の言い伝えを守って、いただいたのです。それなのに、主イエスの弟子たちの中に、手を洗わないで食事する者がいると、抗議したのでした。

主イエスが、ユダヤ人の聖なる習慣、食事は神さまからいただくものという考えを、軽視したわけではありません。

主イエスは、聖餐式の基礎を定められました。食事を清めて、神さまの祝福のうちに糧をいただいて生きることを定められました。

しかし、今日の箇所が、主イエスは、それでは汚れは、根本的に、そういう手洗いで清められるかと問うたのです。

主イエスは、人間の罪や汚れというものは、水で洗い流せるようなものではない。神さまの深い憐みによって、罪を赦され、新しく生まれ変わらせていただくということ以外に、自分を清める道はないのだということなのです。

もし手を洗うというのならば、それは罪を赦し給う神さまの憐れみへの、祈りを象徴するものでなければなりません。

つまり、こうして水で手を洗うけれども、本当は水が手を清めるのではない。神さまの憐れみだけが、わたしたちの罪を赦し、清めてくださるのだという、信仰の表現でなければならないのです。

宗教というのは、本来、神さまと人を結びつけるものなのに、「お前は手を洗わないで食事をしているから汚れている」と言って人を裁き、神さまとの関係から引き離してしまうのです。

神の言葉を無にしている。だから、主イエスは非常に厳しく、このエルサレムから来た偉い先生方に挑戦するわけです。

手を洗わないぐらいで、そうやって人から天国の命を奪ってしまうあなたがたは、いったい何さまのつもりなのだ。あなたがたこそ天国から遠い偽善者だと言ったわけです。

6節以下に、その主イエスの痛烈な批判が記されています。その中で繰り返されている主イエスの言葉があります。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」。「こうしてあなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。

「神の掟を捨てて」、「神の掟をないがしろにした」、「神の言葉を無にしている」と、主イエスは畳みかけるように言っておられます。「神の言葉を捨て、無にしている」とはどういうことでしょうか。それは神さまの本当の声をかき消し、聞こえないようにしているということです。

聖書には、「人は神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と言われています。神さまの本当の声は、人に命を与えるものなのです。

もし人が神さまの本当の声を聞くならば、たとえ神さまから遠く離れていた人でも悔い改めて立ち帰り、倒れていた人でも立ち上がり、うなだれていた人は顔を上げ、希望を持ち、信仰をもって再び歩み出すことができるようになるのです。

ところが、そのような命の御言葉が、聞こえないようにしてしまっているものがある。それは、あなたがたが大切にしている、昔からの言い伝えであるというわけです。

「昔から言い伝え」とは何でしょうか。「食事の前に手を洗う」ということも、聖書に書かれていることではなく、昔からの言い伝えでありました。

善意をもって解釈すれば、もともと聖書と無関係な話ではなく、食事というものを神さまとの交わりとして、神さまを聖視する信仰から生まれてきたものでありましょう。

だとすれば、どんな人間であっても手さえ洗えば清い人間になる、ということではなかったと思うのです。

しかし、言い伝えだけが一人歩きしてしまいました。本来、自分を清めるということは非常に難しいことですが、手さえ洗えば清くなると言えばたいへん都合がいいからです。

しかし、それだけではなく、主イエスが、わたしたちに授けてくださる讃美の言葉、祈りの言葉、信仰の言葉、愛の言葉、恵みの言葉、癒しの言葉というものがあるのです。

主イエスは、わたしたちに神さまの御言葉を回復してくださるだけではなく、わたしたちの言葉をも清めて、回復してくださる御方であるということなのです。

どうかこの一週間も、そのような主イエスの恵みの力に支えられて、生きた神さまの言葉を聴き、また生きた神さまの言葉を伝え、神さまの生きた御言葉に生きる者になりたいと願うのです。

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