2020年10月11日(日)聖霊降臨節第20主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書10章17~27節

「わたしは復活であり命である」

11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

新約聖書、福音書には、死んだ人が復活するというお話が3つあります。

1つは、ヤイロの娘が、眠りから起きたというお話です。ガリラヤ地方の会堂司ヤイロの12歳の娘が病気で亡くなります。主イエスは、娘は死んだのではない、眠っているだけだと言い、「タリタ・クム」(少女よ、起きなさいという意味)と言って、手を取って起こしたというお話です。

2つ目は、ナインというガリラヤの町の、やもめの息子を生き返らせたお話です。やもめのひとり息子が亡くなって、棺がかつぎ出されるところに、主イエスは母親に、泣かなくともいいと言い、棺に手をおいて、起きなさいと言うと、若者が起き上がったというお話です。主イエスは、その若者を母親に、起こして返したのでした。

そして3つ目が、ベタニアのラザロを、主イエスが墓から引き起こした、復活させたというお話です。

ラザロの姉妹たちが、ラザロが病気ですと主イエスに知らせました。主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのですと。

主イエスのおられたヨルダンの向こう側からベタニアまでは、かなりの距離がありました。来てやってください。主イエスがいてくだされば、兄弟は死なないでしょうというのです。

今日のところは、ラザロが亡くなった後、墓に葬られた後に、主イエスはベタニアに着きます。姉のマルタが、ここにいてくださったなら、兄弟は死ななかったでしょうと訴えるのです。

兄弟ラザロが死んで、嘆き悲しむ姉妹に、あなたが願うことは何でもかなうことを承知していますと言うマルタに、主イエスは決定的なことを言われました。あなたの兄弟は復活する、神さまが起こされると言われたのです。

マルタは、終わりの日の復活の時に、人は復活することは存じておりますと言うと、主イエスは、わたしは復活であり、命である、信じる者は、死んでも生きると言われたのです。

マルタは、はい、あなたは世に来られるはずの神の子、メシアであると、信じていますと言いました。

時間は、わたしたちを死に向かって運ぶベルトコンベアーのようなものです。死に向かって、誰もが、歩いているのですし、運ばれています。時間は止まりません。

ただこの道は、下向きでなく、上向きなのかもしれません。この道は、ヤコブのはしご、天にたっする階段です。行く道の門に、わたしたち、信じる者には主イエスがいてくださいます。

 主イエスは、その愛しておられたマルタとマリアの兄弟ラザロを、愛していたがゆえに復活させられました。

神さまは、わたしたちを愛しておられます。ご自分が造られた世界と人なのです。

しかし、わたしたちは罪を犯して、神さまのご栄光を受けられなくなってしまいました。そのために、神さまは、ご自分の独り子イエス・キリストを十字架につけ、わたしたちの罪を赦し、復活の命をわたしたちに約束されたのです。

ベルトコンベアーに乗って、死に向かっている命を、上に向かって引き上げるベルトコンベアーのように、キリストによって、わたしたちを引き上げてくださったのです。

このように、聖書は、天国について書いてある書だと思います。

そのあと、ラザロの死に、主イエスは涙を流します。

主イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に向かいます。人々の悲しみに、人を悲しませる 死の力に憤られたのでありましょう。

人の死の前に、わたしたちは慰める言葉を持ちません。無力です。死の力は、圧倒的にわたしたちを威圧します。有無を言わせない死の力がそこにはあります。

その死の力に対して、主イエスは心に憤りを覚えられ、激しく怒ったのでした。

主イエスはラザロの死の前に、悲しみに涙を流し、その死の力に、再び心に憤りを覚えて

墓に来られました。

主イエスは、その石を取りのけなさいと言われました。

すると、その言葉に、ラザロの姉のマルタが、主よ、4日もたっていますからもうにおいますと言いました。

裏腹に、もうにおいます、何をなさるのでしょうか、何を言われるのでしょか、現実は、ラザロは死んだという思いの言葉を発したのです。

主イエスの言われた言葉は、その石を取り除けなさいでした。この主イエスの言葉は、現実に逆らう言葉でした。石を取り除けなさいと、命令をくだしたのです。

もし信じるなら、神さまの栄光が見られると言っておいたではないか、信じたのではないか、なぜもうにおうというのかと言うのです。

人々は、半信半疑で石を取りのけました。そして主イエスは、父よと、天をあおいで言われまし。父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることをわたしは知っています。

この言葉は祈りです。

神さまは、わたしたちの願い事を知っておられます。もし信じるなら、神さまの栄光が見られるのです。信仰の目によって見ることができるのではないでしょうか。信仰をもって受け容れるとき、わたしたちの人生が変わるのです。

 主イエスが、ラザロ、出て来なさいと大声で叫ばれると、すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来て、主イエスは人々に、ほどいてやって、行かせなさいと言われました。

全ての人の石を取りのけ、出てきなさいと、すべての人の思いの憶測に届く大声で叫ばれたのです。死の壁を打ち破る、主イエスの声でした。

ラザロは、また、救われた人生を歩んだのでありましょう。

復活の出来事ですが、聖書は、どういうふうにして生き返ったか、どういう動きがあって復活したのかとは書きません。主イエスのお声、大声で出て来なさいと言われたことだけが、書かれているのです。

動かせない石があります。人間の限界、有限性があります。人々の叫び、苦悩があります。人の息は絶え、人生の日は尽きます。わたしには墓があるばかりかもしれません。人々はなおわたしたちを嘲り、わたしたちの目は夜通し敵意を見ています。

死の力の何と強いことでしょうか。人生の日の尽きることを、死がわたしたちをあざけるのです。どこになおわたしたちの希望があるのかと。誰がわたしたちに希望を見せてくれるのかと。ことごとく人は陰府に落ち、すべては塵の上に横たわっています。

打ち勝つことのできない死の力、その石を取りのける者はいません。

しかし、わたしたちには、主イエス・キリストの声があります。石を取りのけなさい、出てきなさい、行きなさいとの声があるのです。主イエスのみ声がわたしたちの希望であり、生きる力となるのです。

主イエスは、十字架にわたしたちの罪の赦してくださいました。そして、復活の信仰を見せてくださいました。その死の向こうにある、キリストの復活の似姿にわたしたちもさせられていると思うのです。

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