2022年10月9日(日)聖霊降臨節第19主日 神学校日・伝道献身者奨励日 宣教要旨

マルコによる福音書14章27~31節

「ペトロの離反を予告する」

14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。

14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

場所は、エルサレムの町を出てオリーブ山に向かう道です。間に谷のある起伏のある山道です。

時は夜中です。

この時、主イエスは、弟子たちとの最後の過越の食事をし、賛美の歌を歌ってからオリーブ山に向かいました。それは祈るためでした。

岩だらけの、石がごろごろしていた夜中の坂道です。弟子たちも、石につまずいたり、つまずきそうになったり、よろけて転んでしまう者もいたのではないでしょうか。

聖書にでてくるお話は、わたしたちの人生です。聖書が人生のたとえであり、人生が聖書のたとえでもありましょう。

坂道や、山道の起伏ある道を、つまずいたり、転んだりして、わたしたちは歩いているのです。

そういう、岩だらけ、石だらけのオリーブ山へ向かう道すがら、主イエスは、あなたがたは皆わたしにつまずくと言われました。弟子たちは、何度か、何人か、つまずいて転んだり、転びそうになったりしていたからです。

その主イエスの言葉に、ペトロが反発しました。たとえみんながつまずいてもわたしはつまずきません。ペトロは、その坂道では転ばなかったのかもしれません。そのときのことだけでなく、他の者のようには、わたしだけはつまずかないと言い張ったのです。

ペトロは、弟子の先頭をいつも歩いてきました。主イエスの筆頭弟子でした。ガリラヤの海辺で、わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしようと言われ、主イエスに従ってきました。

そのペトロが、つまずきませんと言い張ったのです。

人間は、誰もが弱いところがあります。自分も、人も、弱さをかかえていることは、誰もが知っていることです。

ペトロは、他の者は弱いから離れるかもしれない。でも、自分は強いので、他の者がつまずいてもつまずかないと思ったのです。

この夜、弟子たちから、仲間が一人離れます。イスカリオテのユダです。このユダの手引きで、主イエスは逮捕されます。

そこで主イエスは、あなたがたはわたしにつまずくと言われました。さらに、わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまうと書いてあるからだと言いました。

そして、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行くと言われました。

と書いてあるとは、旧約聖書にこう書いてあるではないかということです。それは、ゼカリヤ書13章の言葉です。

神さまは、羊飼いを打つ。すなわち、神さまが羊飼いで、主イエスを打たれるのです。それは、主イエスの十字架に死ぬことを意味します。

そのために、あなたがたは、羊は知ってしまうというのです。

羊飼いが殺されてしまえば、羊は散り散りになる他ありません。主イエスの十字架に、弟子たちはつまずきます。散り散りに、離れ離れになるにちがいないというのです。

十字架は刑罰でした。罪人が裁かれ、刑罰を受けることです。死罪です。主イエスは、十字架に裁かれ死んだのです。

人が裁いたのなら、それでもつまずきかもしれません。いえ、神さまが、こともあろうに、羊飼いである、罪のない主イエスを打ったのです。

主イエスの十字架は、誰もがつまずくことだったのです。つまずく必然性があったということです。

神さまは、何故、つまずきを与えたのでしょうか。自ら主イエスを打ちたたき、十字架の死に、ご自分の子を渡されたのでしょうか。

そういうことは、教会では、何度も何度も聞いてきたことかもしれません。わたしたちの罪のためです。贖い、すなわち、わたしたちを罪から買い戻すためでした。

主イエスは十字架に死なれました。それはわたしたち罪人のため、わたしたちが救われるために、十字架に打たれなければならなかったのです。神さまが主イエスを打ちたたいたのです。

このように、つまずきとなるだろうと、聖書の言葉の通りになるだろうと、ご自身のことを主イエスは言われたのです。

主イエスは、つまずきの予告だけでなく、復活のことを予告しました。

かたくななわたしたちのために十字架に死に、わたしたちのためにその命を与えられた主イエスが、復活して、しかしわたしは 復活した後、先にガリラヤに行くと言われました。

ガリラヤは、ペトロをはじめ、ほとんどの弟子たちが生まれ育ったところです。そこで主イエスに出会って、ついてきたのです。

主イエスは弟子たちを散らします。神さまが自分を打つのだから、みなつまずく。しかし、散らしたままにはしない。弟子たちは、また元の故郷、ガリラヤに帰らざるをえない。そして、主イエスは復活して、ガリラヤに先にいっておられる。またあなたがたを集めるというのです。

人生は、つまずき、挫折、失敗のままではないのです。復活の主が、先に、わたしたちの前で待っておられるのです。人生を導いておられるのです。

主イエスは、わたしたちをまた集めて、まことの羊飼いとして先立ち、歩まれ、導かれるのです。

わたしたちは、復活の主イエスの導きのもとに教会に集められ、また導かれる羊なのです。

挫折と失敗の後を、新しく生かされるのです。ガリラヤは、復活の主が待っていてくださるのです・

ある人が、言いました。主イエスは、人間のあらゆる崩壊、人間の愚かさや挫折の上にその約束の言葉を置かれた。その御後に従う歩みは、弟子たちの挫折によっても、主イエスの死によっても、人の罪責、罪の重荷によっても中断されることはなかった。むしろこれによって、主イエスの御後に従う歩みは、ほんとうに開始される。

そして、ペトロに、あなたは鶏が二度鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うだろうと主イエスは言われました。

しかし、ペトロは言いました。たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません。

皆の者も、皆、同じように、わたしは違うと言いました。わたしたちはつまずきませんと言い張ったのです。

わたしたちは弱く、つまずきます。石につまずいて倒れます。

それにもかかわらず、わたしはつまずかないと言い張るかたくなな人間に、主イエスは、復活の後、わたしたちをそれぞれのガリラヤで、故郷で待ってくださり、先立って歩まれ、導いてくださるというのです。

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