2020年10月25日(日)降誕前第9主日 宣教要旨

マタイによる福音書10章26~31節

「数えられている人々」

10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。

10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

わたしたちは、誰もが、不安のない人はいないと思います。このあとどうなるのか、いつ地震がくるのか、病気にならないだろうかとか。家族は元気に過ごせるだろうか、大雨が降らないか、将来、自分はどうなるのかなど、考え始めたら、何も安心だということはないわけです。

しかし、わたしたちは、神さまを恐れ、神さまに祈って生きます。

今日の箇所の、主イエスのお言葉は、信仰者の迫害の危険を背景にしています。

前後の文脈ですが、10章、12人を選ぶ、12弟子を派遣するという箇所で、主イエスは迫害を予告しました。

キリスト教の伝道の歴史は、迫害と殉教の歴史です。迫害と殉教がキリスト教を伝えていったと言ってもよいかもしれません。

エルサレムからキリスト教が始まりました。最初は、キリスト教はユダヤ教の一派、分派でした。ユダヤ教からの迫害、追い出しが、逆にキリスト教を広めていく契機となりました。

エルサレムは、西暦70年、ローマ軍によって陥落します。そのことによって、また、福音は、エルサレムからサマリアに、シリアに、アジアに、そしてヨーロッパに、ローマに伝えられることになるのです。

 迫害は殉教者を出していきました。その迫害が、殉教が、キリスト教を世界に広めていったのです。

今日の主イエスのお言葉です。主イエス・キリスト、すなわち、主イエスはキリストであるとの、救主への信仰を、明るみで言い広めなさい、屋根の上で言い広めなさいと言われました。

ユダヤの屋根は、平屋根です。簡単に上ることができました。

マタイによる福音書9章に、4人の友人が、中風で寝たきりの人を屋根から、屋根をはいで主イエスのところにつり下ろす話があります。そういう、誰もが上れる屋根の上で、言い広めなさい、主イエスを証ししなさいというのです。

不安のない人はいないという話をしました。わたしたちはどこを見ているのでしょうか。自分の不安だけを見ているのでしょうか。

主イエスは、群集に、特に弟子たちに、友人であるあなたがたに言っておく、体を殺しても、その後、それ以上何も出来ない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だと言われました。

 わたしたちは、地上の法廷で、罪の故の死という罰を受けます。そして、天上の法廷で、神さまの裁きの前に立たされます。その時、地獄に投げ込む権威を持っておられる方、その方を恐れることを知らなければならないというのです。

10世紀に、ロッサーノのニーロスという修道士がいました。回心を経験し、バシリオス修道会に入ります。知恵の人として名声を得ました。

そこに、神聖ローマ帝国の皇帝、オットー3世がニーロス修道士を訪ねます。

 帰り際に、オットー3世が、ニーロスに、何かお礼をしたいと言うと、ニーロスはほとんどためらいもなく、皇帝に近づいて、あなたは皇帝として権威をほしいままにしているが、やがて誰でも同じように死ぬわけで、そのとき、神さまの裁きの前に立つことになる。そのとき、あなたも神さまの前に申し開きをしなければならない。どう言うか、用意ができているかと聞きただしたのです。

意外な質問に、皇帝は答えることができなかったというのです。

それだけの逸話ですが、わたしたちも、誰もが、神さまの裁きの前に立つのです。そのことき、自分はどうなるのか、誰に救われたのかを、言わなければならないのではないでしょうか。

畏れるという言葉には、2つの意味があります。ひとつは恐怖、もうひとつは畏敬です。恐怖感におそわれる、恐ろしいという意味と、畏れおおい、ひれ伏すような気持ちの、ふたつの意味があります。

人を恐れるというのが前者、恐ろしいという意味、恐怖感です。後者、神さまを畏れる、畏れひれ伏すべき方ということです。ですから、人を恐れるなと主イエスが言われたのは、畏れひれ伏す方として、人は恐れるな、恐れるのは、ひれ伏すべき神さまを恐れよと言われたのです。

二羽の雀が一アサリオンで売られていました。

アサリオンはローマの最小銅貨です。二羽一組で、何十円かで売られてすずめです。小さいもの、価値のないものの代名詞のすずめですら、その一羽ですら、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはありません。

すずめ一羽すら、神さまは支配しておられます。覚え、御手の内にあるのです。

ましてあなたがたは、人は、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられています。数えられているということは、覚えられているということです。

 主イエスに、見失った1匹の羊、なくした1枚の銀貨のたとえがあります。見失った羊を、無くした銀貨を、神さまは探し回ります。そのように、ひとりひとりを、その数を、人を、神さまは数えておられます。

すべてが、神さまの御手のうちあります。わたしたちの生き死にが、キリストの十字架と復活の生き死に、また、覚えられているということでありましょう。

恐れなさい、いや、畏れるな、あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっているというのです。

雀との比較のたとえのように、その恐るべき方、神さまは、わたしたちを決してお忘れにはなりません。

 わたしたちは、いくら大事なことでも忘れてしまいます。しかし、神さまは忘れません。本当にわたしたちを愛してくださっているのです。

神さまは、御子イエス・キリストを世に遣わし、十字架に死ぬことで、わたしたちの罪を赦してくださいました。

恐るべき方を恐れるな。神さまはわたしたちを愛しておられ、覚えておられます。

わたしたちは、信仰によって、恵みによって救われています。わざによるのではありません。何かをしたら救われるのではありません。罪赦されるのではありません。ただ、信仰によって、神さまの御子イエス・キリストによって、イエスはキリスト、救主との信仰によって救われるのです。

 わたしたちは、地上に、何十年かの生涯を歩みます。生まれるのも神さまのなさるわざです。召されることも、神さまのなさることです。人の生涯は、すべて、神さまの思し召しのうちにあるのではないでしょうか。

コリントの信徒への手紙一15章に、神さまは、人を眠ったままには決してなさらない。生き死にを支配される恐るべき方である神さまは、種粒から、これがほんとうに地におちた種粒であったのかと思わせるほどに、種粒から新しい体を見せてくださる。そのように、神さまの奥義は、人を眠ったままにはなさらず、新しい体を、わたしたちに、あたらしい着物をまとうかのように、体をくださると書いてあります。

 わたしたちこそ、神さまに数えられている人々です。また、わたしたちも、神さまの恵みを数えて過ごしたいと思うのです。

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