2020年11月22日(日)降誕前第5主日 宣教要旨

マタイによる福音書6章25~34節

「神の国と神の義を求めなさい。」

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

今からちょうど400年前、1620年9月に、イギリスのプリマスという港から、メイフラワー号という1槽の船がアメリカに向けて出帆しました。

102名の、神さまを信じる人たちが、新しい国アメリカで生活しようと出発したのです。

イギリスで、プロテスタントのキリスト教ピューリタン、分離派、組合派というグループが生まれました。迫害で、イギリスに住むことができなくなって、オランダに住むのですが、また、生活の問題などが出て、新天地アメリカに住もうと計画を立てたのです。

船はアメリカに近づく間近、暴風雨に悩まされ、なかなかアメリカ大陸に近づけません。目的地、バージニア植民地に入植の許可証の期限を過ぎてしまいました。船は暴風雨に流され、約800キロ北、コッホ岬というところにたどり着きます。

すでに11月、やむなく上陸したのが、今のマサチューセッツ州、後にニューイングランドといわれる土地でした。

12月、思った以上の寒さと食糧難、今でいう、インフルエンザのような風邪で、102名の人たちの約半数が、冬を越せずに亡くなりました。

そして翌年の春、農業などしたことのない知識人であった彼らに、土地のインディアンが、とうもろこしの種や野菜などを持ってきて、農業の仕方を教えてくれたのです。

そして、その1621年の秋、春に蒔いた種が実を結び、収穫をお祝いしました。教会に集まり収穫感謝の礼拝をささげたのです。これが、収穫感謝祭の由来となりました。

わたしたちにはいろいろな悩みがあります。仕事のこと、健康のこと、人間関係のこと、家族のことなど、数え上げたらきりがありません。

命のこと、体のことは、本当に深刻な悩みです。食べること、飲むこと、着ることにも悩みます。

悩みを数えると、心がそれでいっぱいになってしまうのではないでしょうか。

主イエスは、わたしたちに、思い悩むなと言われました。命のことは食べ物より大事ですし、体は衣服より大事です。

主イエスはよく見なさいと言われました。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈入れもせず、倉におさめもしない。鳥を、神さまは養ってくださっているのではないかと。

思い悩んでも、寿命がのびるのでしょうか。

食べるもの、飲むもの、衣服のことで思い悩むな。野の花がどのように育つか見てみなさいと言われました。働きもせず、つむぎもしません。栄華をきわめたソロモンでさえ、これほど着飾っていなかったと。神さまは、野の花をこれほどまでに装ってくださると言われたのです。

空の鳥、野の花を、神さまは養い、装っていてくださるのです。ましてあなたがた人間は、ガリラヤの男、ガリラヤの女よ、神さまはあなたがたが必要なものをご存じであられるというのです。

悩むという言葉は、心がふたつに分かれるという意味です。あれかこれかと、心が分かれることを、悩むといいます。

主イエスは、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさいと言われました。

神の国と神の義を求めるとは、神さまを信じなさいということでありましょう。神さまに一切をゆだねる生き方、おまかせする生き方ということでありましょう。

そうすれば、すべては与えられるというのです。

ルカによる福音書10章、マルタとマリアの話に、思い悩むという言葉が出てきます。

主イエスへの接待、食事の用意にマルタは悩んでいました。一方、妹のマリアはそうではありませんでした。主イエスのひざもとに座って、主イエスのお話をただ聞き入っていたのです。姉は悩んでいたのですが、妹は悩んでいません。

主イエスは、マリアは、よいほうを選んだとほめられました。

主イエスのお言葉を聞いて生きる生き方は、神の国と神の義を求める生き方は、悩まない生き方ということでありましょう。

明日のことまで思い悩む必要はありません。わたしたちに悩みがなくなるというのではありません。悩みは、その日一日だけでいいというのです。

神さまのほうを見るように、神さまの声を聞くようにということだと思います。神さまにゆだねるということだと思います。

八方ふさがりで、どうにも解決がないということばかりかもしれません。わたしたちの人生は、今日一日だけ悩んで、それで解決するのでもありません。何年かかっても、結論が出ないのです。分かっていても人は悩みます。

しかし、八方ふさがりでも、一か所はあいているのではないでしょうか。それは神さまのおられるところ、天です。天はふさがっていません。天に願い求めて生きるとき、そうすればすべては供えられるのです。

天に悩みの答え、道が開いているのです。

キリストは、天からの答えです。神の国と神の義を求めて生きることは、キリストを求めて生きることです。キリストの信じて生きることです。神さまのご支配、正しさが、御子イエス・キリストにあらわされたからです。

何よりもまず、神の国と神の義を求めて生きる、神さまを信じて生きることは、礼拝をささげて生きること、神さまに祈って生きることです。

ロシアの文豪トルストイに、復活という小説があります。トルストイが復活を書き上げたのは1899年、第20世紀の扉を前に、時は帝政ロシアの末期でした。貴族と町民の落差に、農民は生活に苦しみ、階級社会の矛盾が、人々の不満のますますあらわになった時代でした。

トルストイは、ネフリュードプ公爵とカチューシャの恋を通して、不合理な、非人間的な社会を訴えます。

小説の最後のところです。聖書の言葉が引用されます。それはマタイによる福音書6章33節、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさいという箇所でした。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。

ネフリュードフ公爵は、ところがわれわれは、その他のものばかり求めているので、必要なものを見出せないのも無理はないと述懐するのです。

時代は変わって現代、状況はいろいろと変わってきました。社会状況、人の生き方、考え方、愛し方も変わりつつあります。しかし、聖書のメッセージ、キリストのお言葉である、まず神の国と神の義を求めなさいというメッセージは変わらないのではないでしょうか。わたしたちは、本当の糧、み言葉を必要としているのです。そして、神さまが、み言葉をもってわたしたちを養ってくださっているのです。

神さまに感謝を、今日もおささげしたいのです。

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