2021年2月21日(日)復活前第6主日・受難節第1主日 宣教要旨

マタイによる福音書4章1~11節

「主イエス、誘惑を受ける」

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」

4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

主イエスは、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれました。そして、40日40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。

聖書では、かぎかっこでくくってある「霊」は、神の霊、すなわち聖霊をあらわします。

主イエスは、その聖霊に導かれて、悪魔から誘惑を受けるために、荒れ野に行かれたのです。

悪魔は、誘惑する者と呼ばれる存在です。わたしたち人間を、本来の道からそらし、間違った道へと迷い込ませる存在です。

悪魔を、物語的に聖書はいつも語ります。

最初の人アダムとエバを誘惑した蛇は、悪魔のことです。食べてはいけない園の中央の木の実を、誘惑して食べされた蛇は、神話的に描かれます。

そういう悪魔は、実在するのではないでしょうか。

ここでは、悪魔は、誹謗中傷する者、敵対する者として現れます。わたしたちも悪魔になり、また悪魔の誘惑にさらされているのではないでしょうか。

悪魔は、弱い人間に住もうとされます。

荒れ野の40日40間は、これは、旧約聖書の、エジプトを出たイスラエルの荒れ野の40年の旅を連想させます。

奴隷の地エジプトを出たイスラエルは、約束の地カナンを目指します。選びの民として、あいふさわしさを身にまとうため、民は40年、苦しみ悩んだのです。荒れ野の40年は、必要な年月でありました。

その荒れ野の40年を、主イエスは40日40夜、悪魔によって試みを、誘惑を受けたのでした。

ですから、この誘惑は、わたしたち主を信じる者がたどる試みでもあるわけです。

このように神さまは、わたしたちを真のイスラエル、神の選びの民として導かれているのではないでしょうか。

こういう誘惑のために、主イエスは、40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられました。すると、誘惑する者、悪魔が来て、神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだと言うのです。

主イエスも空腹を覚えられました。

空腹は、貧しさ、悲しみであります。貧しいところに、奪い合いが起きるのではないでしょうか。

主イエスは、そういうわたしたちの貧しさ、悲しみを体験したのです。

 悪魔は、主イエスに、神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだと誘惑しました。

主イエスは、人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きると書いてあると答えました。

主イエスは、パンが大事であることをよくご存知でした。パンのことを、いつも覚えていました。

主イエスのお答えは、しかし、パンの問題が解決すればすべてが解決するのではないということでした。

悪魔は、パンこそ人生であり、喜びであり、楽しみではないかと誘惑します。悪魔の誘惑は、人間の本質をえぐり出します。人間の弱さを、欲をえぐりだします。

しかし、主イエスのお答えは、人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きると書いていると、誘惑を退けられたのです。

申命記8章、40年間の、エジプトを出たイスラエルの、荒れ野の旅の言葉です。

空腹のイスラエルはつぶやきます。飲む水がない、パンがないと。まだエジプトにいたほうがよかったと恨み言を言いました。

民に、神さまは天からのパンをふらせました。それは、食べ物だけのことではなかったのです。すべては神さまのお導きにあることを知らせるためのパンでした。その日一日だけのパン、マンナが与えられ、イスラエルは旅を続けたのです。

パンそのものがすべてではなかったのです。神さまが示した約束の地カナンは、今はパンで苦しみ渇き経験しているが、その中でパン、マンナが与えられました。

それは、人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きることを、あなたがたに分からせるために、天からのパン、マンナをふらせたのだと。

 わたしたちの生活は、いろいろな人の犠牲によっています。いろいろな犠牲の上に、わたしたちは生きています。

主の受難節に入りました。キリストの十字架の犠牲に、わたしたちの命があるのではないでしょうか。

わたしたちの身代わりに十字架に苦しまれ、わたしたちの身代わりに主イエスは死なれました。

専門家は、いじめなど、人間の争い、弱さの問題は、どう考えても、扱えば扱うほど解決できないことがあることにつきあたると言います。

問題はそのままでいいのではありませんが、神さまは、独り子をわたしたちに差し出してくださって、独り子に わたしたちの罪、一切を負わせられました。ここに、わたしたちの救いが、命があるのではないでしょうか。

荒れ野の3つの誘惑です。エジプト出たイスラエルの荒れ野の40年の経験が背景にあります。

 食べ物の問題、偶像の問題です。

主イエスは、申命記の言葉、詩編の言葉をもって、次々と悪魔の誘惑を退けていきます。

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