2022年3月6日(日)復活前第6主日・受難節第1主日 宣教要旨

マルコによる福音書1章12~15節

「福音を信じなさい」

1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これは、主イエス・キリストが、福音を宣べ伝えられて語った最初の言葉です。

この主イエスの言葉は、4つの言葉が重ねられています。最初に、「時は満ちた」、次に、「神の国は近づいた」、そして、「悔い改めよ」、そして最後に「福音を信じなさい」。この4つです。

「時は満ちた」。これは、神さまのご計画が万端整って、いよいよその時となったということです。

この時は、「カイロス」という言葉です。

これは、ある特別な意味を持っている時や時間のことを言い表します。潮が満ちて海岸が満潮になるように、押し寄せて満ち満ちる時、それがカイロスです。

次に、主イエスは、「神の国は近づいた」と言われました。

この神の国、あるいは神の支配と翻訳されるバシレイヤという言葉は、もう少し日本流に言い換えると、「神の御手」ということになります。「神の御手が置かれる」と言ってもよいかもしれません。それが神の国です。

そして、「神の国が近づいた」と主イエスは語りました。

「近づいた」。これは、わたしたちを悩ませる言葉ではないかと思います。わたくしは聖書を読み始めて、ずっとこの言葉がピントこなくて悩んでおりました。大変、冷たい言葉のようにも思われました。

近づいた、それは、言葉を換えると、まだ来ていないということにもなりましょう。そして、それは無限に近づくけれども、いつまでも来ない、そういう響きさえ感じ取っていました。

しかし、それは、間違いでありました。「近づいた」。それは、ただ単に、近づきつつある、どこらあたりか分からないけれども、何しろ近づいて来ているのだというのではなくて、もっとはっきりと「来た」、「到来した」と訳してもよい言葉のようです。

ある英語の聖書は、はっきりと、「has come」、「来た」と翻訳しています。春の訪れに気づき、春が来た、春が来た、と子どもたちが喜ぶように、神の国は来たと、主イエスは言われたのです。

しかし、この主イエスの言葉は、それ以上に、日本語の「来た」と言い表す時のニュアンスに近いと言われます。日本語では、「来た」という時、それは、必ずしも目の前にそれが到着しているわけではなく、まだ、遠くにそれがあったとしても、「来た」と言い表すことがあります。

主イエスは、「神の国が近づいた」、神さまがわたしたちに近づいて来てくださると言われました。そこでは、まだ、あるいは、いまだにという留保がある。しかし、神の国とわたしたちの間には、切っても切れない深い関わりが生まれているのです。

ある人がこう言い換えています。「神の国が近づいた」、すなわち、主イエスがおいでになることによって、神さまの御手がいよいよあなた方のところにさしのべられ、神さまの恵みの光があなたがたのところに射し込んできたのである。」

主イエスは、続いて、「悔い改めよ」と言われました。悔い改めとは、神さまのほうに心を向けなおして、その語られる救いの喜びの知らせを信じるということです。

主イエス・キリストは「悔い改めよ」と言われました。恵みの光が射し込んできたのだから、その光の方に向きをかえて、光を思う存分浴びなさい。神さまの御手がおかれたのだから、その御手のもとに自分を置きなさい。それは悔い改めであると言われたのです。

そして、最後にこう言われました。「福音を信じなさい。」福音、喜びのおとずれを信じなさい。

もうここで、福音とは何かということをお話する必要はないと思います。ただ、マルコによる福音書が、この主イエスの言葉の前に、いつ、どこで、これをお語りになったのかを伝える言葉に心を留めたいと思います。そして、福音、喜びのおとずれを受けとめたいと思います。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えた。」そう書かれています。

三つのことを記憶していただきたいと思います。

一つは、「ヨハネが捕らえられた後」という言葉です。

これは、洗礼者ヨハネの時が終わった。そして、主イエスの時が来たということを伝えていますが、それ以上のことを語っています。

そういう出来事が生々しく伝えられる、その時に、主イエスは神の国の福音を宣べ伝えられたというのです。

二つ目のことは、「捕らえられた」という言葉です。

この言葉は、しょっちゅう登場する言葉ではありません。この箇所の外には、ただ一つ、特別な出来事を伝える時に、マルコによる福音書では用いられます。それは、主イエス・キリストが捕らえられ、十字架に引き渡された時です。

三つ目のことは、「主はガリラヤに行かれた」ということです。

ある聖書は、「ガリラヤへ来られた」と訳しています。行ったというのではなくて、来られた。どちらも、翻訳としては間違いではありません。しかし、「来られた」というのは、味わい深い訳だと思います。

ガリラヤは、わたしに従ってきなさいとのお召しに従った弟子たち出身地です。弟子たちの生活の場所、それがガリラヤです。ただ単なる地名ではありません。主イエスに従う者たちの生活の場所、そういう象徴的な意味を持っています。

さらに、マルコによる福音書は、最後のところで、すなわち、主イエスのご復活を伝える箇所で、復活の主は、ガリラヤで弟子たちに会うと言われたことを伝えています。

そうだとすれば、ガリラヤとは、主イエスに従う者たちの生活の場所、そのただ中、そして、そこは復活の主イエスにまみえる場所のことになります。

ヨハネによる福音書です。

恐ろしくて、弟子たちは戸を閉め切ってある家の中にいました。そこに復活の主イエスが入って来られて、「平安があるように」と言ったということを伝えています。ガリラヤとは、そのように復活の主イエスがきてくださる場所です。

旧約以来、人々が待ち望んでいた神の国の到来です。罪と闇におおわれた人々に、主イエスの出現によって光がさしました。

罪の結果は死でありました。しかし、主イエスが、ガリラヤで、閉ざされた人々と共に歩き、その罪を、闇を開いたことにより、人々は、御國の到来を知ります。すべての人々が、主イエスの、エルサレムでの十字架の死と復活に、いのちの福音を聞いたのです。自分たちは主イエスを信じることで生きることができるのだと。

罪を、神さまの怒りを、主イエスが負ってくださいました。

わたしたちは、悔い改めて良い実をむすぶのではなく、主イエスの福音を聞いて、悔い改めて福音を信じることで救われるのです。 主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と、今、言われるのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加