2021年5月9日(日)復活節第6主日 世界母の日礼拝 宣教要旨

マタイによる福音書12章46~50節

「主イエスの母、兄弟、姉妹」

12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。

12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。

12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」

12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

今日の聖書の箇所は、主イエスの母、兄弟という見出しです。

わたしたちの本当の母、兄弟姉妹は、神さまの家族と教える箇所です。

主イエスにも、実際の家族がいました。血のつながった家族です。おとうさんのヨセフは、主イエスの少年時代のエピソードには、神殿の境内で、学者たちに質問したり話したりするところで、おとうさんが出てきます。しかし、それ以後、福音書には、おとうさんのことがでてきません。早いうちに他界したと思われます。

大人になった主イエスには、実際の家族がいました。母マリア、弟たち、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、また妹たちがいたことがわかります。

マタイによる福音書13章に、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」と、故郷ナザレに戻ったときのお話にでてきます。

その実際の家族が、「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言ったというのです。

家族は、主イエスのことが心配でした。弟子を連れて、病気の人を治したり、いろいろなところで、天の国は近づいたと宣べ伝えているというのです。

家にも帰らない長男です。悪霊を追い出すというのです。

マルコによる福音書3章に、主イエスの母、兄弟という見出しの前後に、「彼は汚れた霊にとりつかれている」という、どうかしているのではないかといううわさが立っていたことがわかります。

「しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

主イエスは、わたしの母、わたしの兄弟とは誰かと言いました。弟子たちや、主イエスのまわりに集まった人たちを、あなたがたがわたしの母、兄弟、御心を行う人こそ、わたしの兄弟姉妹、また母なのであると言ったのです。

先生は、こどもを平等に扱うべきです。先生は、生徒を公平にあつかわなくてはいけないと思います。

誰かをえこひいきして、この子はかわいいから、他の子よりもかわいがってやろうということは、できないし、してはいけないことだと思います。

主イエスは、自分の実際の家族をないがしろにされたわけではありません。あとのいきさつを見ますと、実際の家族を大事にし、母マリアを弟子にたくし、弟ヤコブは、初代教会で重んじられました。

しかし、主イエスの周りに集まってきた人々、家族があっても、病気であったり、悪霊にとりつかれていると言われたり、また、家族があっても、家族のきずなが切れてしまった人たちを大事にしたのです。

「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」マタイによる福音書9章です。

この人たちが、自分の母、兄弟姉妹である。神さまの家族であると言いました。御心を行う人、すなわち、神さまに聞き従う人を、家族として、大事にしたのです。

十字架は、横と縦の軸があります。

しばしば、横の十字架、横木は、地上の家族をあらわします。一方、十字架の縦の木は天をさします。すなわち、横の家族に対して縦の家族があるのです。

母親は、自分の子だけがかわいいのですが、同じように、わたしたちを造られた神さまは、ひとりひとりを、わたしたちだけがかわいいと言って、同じように愛しておられるのではないでしょうか。

わたしたちは、地上の大事な家族はいます。そして、天の家族、主イエスの家族もあるのです。

アンナ・カレーニナの冒頭の言葉です。「幸せな家庭はみな似ているが、不幸な家庭はそれぞれ異なって不幸である。」

平和な家庭もくずれます。それ以上に、その底に、解決できない人間の罪があります。そういう地上の人間を、人間の家族を、主イエスは、ひとりひとりを、目をかけておられ、ここにわたしの母、わたしの兄弟姉妹がいると言われたのではないでしょうか。

わけへだてなく、えこひいきして見ておられる、神さまの視線があるのです。

今日は母の日です。

母の日は、100年ほど前の、アメリカのメソジストの教会ではじまりました。

マサチューセッツ州ウェブスターという町の、メソジストの教会で、26年間、教会学校の先生をしていたクララ・ジャービスという夫人がいました。

あるとき、こどもたちへの話の中で、モーセの十戒の第5戒、あなたの父母を敬えという話の中で、どうやって両親に感謝したらいいかと、質問を生徒にしたことがあったそうです。

娘のアンナが、その話を聞いていて、覚えていました。

おかあさんのクララ・ジャービス夫人は、1905年5月6日に亡くなります。

娘のアンナは、フィラデルフィアの教会で、5月10日に、おかあさんを追悼して、お母さんが好きだった赤いカーネーションをくばって、母への感謝をあらわしたそうです。

このことを聞いた、1908年の5月の第2日曜日、ペンシルバニア州フィラデルフィアの百貨店王、郵政大臣のワナメーカー氏が、ひろめたそうです。

そして、母の日は、1914年、ウィルソン大統領のときに、アメリカの祝日として、行事になったということです。

日本でも、婦人矯風会、青山学院のアレキサンダー女史、森永の創業者森永太一郎氏などが宣伝し、戦後になって、5月の第2日曜日を母の日とし、カーネーションを配るようになったとのことです。

あなたの父母を敬えという、聖書の教えが出発でした。

神さまに、わたしたちは家族として、愛されています。

わたしたちは、神さまを愛し、父母をうやまいます。

母の日は、感謝の日なのです。

 マザーボードという言葉があります。母が基礎です。この母に感謝するのです。

それとともに、ここにわたしの母がいる、兄弟姉妹がいると言う、主イエス・キリストが中心の、教会の家族があるのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加