2021年11月28日(日)降誕前第4主日・待降節第1主日 宣教要旨

マルコによる福音書11章1~11節

「エルサレムに迎えられる」

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。

「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。

二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

今日からアドベントに入りました。アドベントの最初の日曜日を迎えました。

聖書は、主イエスのエルサレム入城、エルサレムに迎えられるという箇所です。

この箇所は、しばしば、受難週に読まれる箇所です。受難週と待降節は、色、景色が似ているのです。

十字架に死なれるために、主イエスはエルサレムに来られ、人々は迎えました。

クリスマスは、御子イエス・キリストの誕生を待つわけですが、わたしたちのために、十字架に死なれた御子のご降誕を待つ時でもあるわけです。

受難週と待降節が、同じ景色であると、世々の教会は知っていました。ですから、棕梠の主日に読まれる箇所が、しばしば、今日、待降節の第1日曜日に読まれてきたのです。

主イエスのエルサレム入城は、4つの福音書すべてが報告します。十字架と復活の物語以外、5000人の給食とエルサレム入城だけが、すべての福音書が報告しています。印象深い、重要な出来事であったからでありましょう。

エルサレム入城は、4つの福音書の細部には、若干の表現の違いがありますが、おおよその言わんとするところは共通します。

わたしたちの主イエス・キリスト、クリスマスの主は、この世の王さまのようにではなく、この世の支配者のようにではなく、エルサレムに入られたということです。

それは、ろばに乗ってエルサレムに入られたということです。マルコによる福音書では、子ろばに乗って入られたと書いてあります。

軍馬は、戦(いくさ)の道具です。主イエスは、馬ではなく、ろば、すなわち、平和の象徴であるろばに乗ってエルサレムに入られました。

どの福音書でも、特にマルコによる福音書では、主イエスがエルサレムに入るにあたり、ろばの調達に、ほとんどをついやしていることがわかります。

主イエスは、争いのためにこの世に来られたのではありません。平和のために、争いを鎮めるために来られました。

ゼカリヤ書の9章です。娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。

エルサレムに王が来る。高ぶることなく、ろばに乗って、戦いのためではなく、軍馬ではなく、ろばに乗って、戦いを絶つため、国に平和を告げるため、平和が、海から海、地の果てにまで及ぶまで、ろばに乗ってくるのです。

福音書は、マルコによる福音書は、主イエスが来られるのは、平和のために、人と人の争い、また、神さまに逆らう人の罪を鎮めるためにこの世に来られたと教えるのです。

ただ、この世の人々は、平和のために主が来られたことを理解できませんでした。

それが、エルサレムの人々は、また主イエスの前に行く者も後に行く者も、弟子たちをはじめ、主イエスの支持者も、へりくだりの主ではなく、この世の支配者、凱旋の王、将軍を迎えるかのように主イエスを迎えたのです。

ろばに乗って来られた主イエスを、人々は、自分の服を道にしき、葉のついた枝を切ってきて、また、道にしいたのです。

ヨハネによる福音書では、ナツメヤシのことですが、棕梠の木の枝をもって主を迎えたと書いてあります。棕梠の主日と言われるわけです。

自分の服を道にしいたり、枝をしいて主を迎えることは、凱旋将軍を迎える儀式でありました。エルサレムの人々は、主イエスの追従者も、主イエスを誤解して、将軍を迎えるように迎えたのです。

エルサレムの人々は、主イエスを歓迎しました。この方が、今の王を倒す、新しい将軍にちがいないと思ったのです。

列王記下の9章です。北イスラエル王国は、アハブ王に代わって、ヨラムの将軍イエフが凱旋し、王になります。イエフは、北イスラエル王国、第4王朝の祖となります。

イエフを、部下たちは、自分たちの上着をぬぎ、イエフが王になった、油を注がれ、あなたはアハブの家をうち、イスラエルの王になったと喜び、歓迎したのです。

そのならわしは、マカベヤ時代にも引き継がれ、また、主イエスが、武力をもって王位を得た将軍のように人々は出迎えたのです。

ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。王さま万歳と主イエスを出迎えたのです。

しかし、主イエスは、凱旋の将軍、王ではありませんでした。子ろばに乗って、へりくだり、謙遜のきわみにエルサレムに入られました。十字架につかれるために来られたのです。

主イエスは、わたしたちの罪の救主だったのです。

待降節です。わたしたちは主を待ち望みます。

人は、罪の縄目にとらわれ、光を理解しません。わたしたちひとりひとりが、罪の中にあるからです。

しかし、クリスマスに光がさしました。光が、御言葉に、不思議な仕方で示されるのです。

主イエス・キリストの恵みが示されます。わたしたち人間には開かない扉、天の扉が開かれました。罪人には、絶対開けることのできない命の扉です。神さまの独り子が、エルサレムで十字架に死なれることで、天の扉を開いてくださったのです。わたしたとは、その恵みにあずかるのです。

フィリピの信徒への手紙2章です。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

クリスマスの主イエス・キリストは、十字架のキリストです。戦いの主ではなく、犠牲の十字架の主です。この方が、復活の道を開いたのです。

マルコによる福音書のエルサレム入城は、主イエスが、平和の主であることを記します。

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