2022年2月6日(日)降誕節第7主日 宣教要旨

マルコによる福音書4章21~25節

「ともし火と秤のたとえ」

4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

「ともし火を持って来るのは」と言ってたとえは始まります。誰かが小さな光を持って来ます。おそらく、器に油が入っていて、その中に芯になる布を浸して火を灯す、そんな簡単なランプだと思われます。

火がつけられ、光が来ます。夕闇が迫って、すっかり暗くなってしまった部屋の中が明るく灯されます。その光のもとで、ほんの少しの間、家族の団らんに花が咲き、そして皆は一日の疲れを癒すために床につく。しかし、ともし火は消えないで、光を放ち続け夜を守ります。そんな光景が日毎に繰り返されていたのでありましょう。

それですから、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」そう主イエスは言われるのです。

升というのは、たいへん重宝な道具だそうです。秤にも使います。すぐ後の「秤のたとえ」に出てくるのは、実は升のことだと言われます。

それは穀物や塩などを量るために使います。もしかしたら、油を量ってランプの中にそれを注ぐ、そういう役目もしたかもしれません。そして、それは実は火を消すためにも用いられました。

当時、ことに農家では、家といっても一部屋しかないのが普通で、そこに皆が寝起きします。窓がないか、あってもたいへん小さい。実は昼間から家の中は薄暗かったと言います。

加えて、煙突などありませんから、換気が難しかったようです。ですから、火を消すときには随分気を使ったのだそうです。いやな煙や匂いが立ち込めたり、残り火が燃え上がることのないようにしなければならない。すばやく、確実に火を消す必要がありました。そのために、一番よい方法が、升を使ってランプに蓋(ふた)をすることだったのだそうです。

ですから、ともし火を升の下に置くというのは、火を消すことを意味しています。

また、寝台というのは、板張りのベンチのようなもので、部屋の隅に、壁に沿って据えられていたと言われます。ですから、寝台の下にとは、火を部屋の片隅に隠すということでしょうが、あるいは、もしかしたら、升で火を消して、ランプと升も共に寝台の下に片づけてしまう。ランプも升もお役御免となってしまい込まれる。そういうことを伝えているのかも知れません。

いずれにしても、そうであれば。夜は光を持つことなく、まったくの闇に包まれてしまいます。そんな馬鹿なことを誰もしません。ともし火は、部屋のまん中に、燭台の上に置かれるべきであります。

主イエスの教え、それはたとえで語られたと伝えられていますが、その教えが、ここでは「ともし火」にたとえられています。

ともし火が来ます。それは消されたり、升と一緒に片づけられたりはしません。そんなことのために光が来たのではありません。光は消されることなく灯り続けるのです。

そして隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはないと、主イエスは言われました。

隠れているもの、秘められたものとは、神の国、神さまの恵み深いご支配のことを指しています。

あるいはこう言い換えても良いと思います。神の国に招かれ、神さまのみ手の中にわたしたちも、わたしたち自身を知ることができるということです。

誰でも、すぐにここを読みますと、闇の振る舞いと言いましょうか、悪いこと、隠れて密かになされている悪事のことを思いつくのかもしれません。

思わぬことが暴露され、裁かれる。悪いことが闇の中に隠されずに露わになる。そういう意味合いで、確かに隠れているものがあらわになり、秘められたものが公になるという言い方をすることもあります。

そして、それを期待する強い思いというものが、わたしたちの心に中にあるかと思います。

いったいわたしたちの生きている世界はどうなってしまったのだろうか。どこか間違っているのではないか。ボタンの掛け違いと言いましょうか、歯車がどこか狂っているのではないか、そんな思いに覆われるのではないでしょうか。

そしてそれは他人事ではない、けっして人ごとだと片づけられない、自分たちのこと、自分たちの営みの世界のことであります。

ですから、隠れた悪事が明るみに出されて、正しく裁かれることをわたしたちは願いますが、しかしそれ以上に、もっと期待していること、心の底で待っていることがある。それはこの世界に救いが訪れること、神さまの恵み深いご支配、神の国が見えるようになるということではないかと思います。

光は祝福です。しかしそれは、それこそ深く、深く隠され、覆われてしまっているように思われる。たとい光が来ても、その光が輝くような場所はないし、わたしたち自身の闇のほうが強くて光を覆ってしまう。そんなふうにも感じさせられます。

それは、主イエスの周りに集まってきた人々の心の風景でもあったのではないかと思います。

しかし、主イエスは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言いました。

光は来た、ともし火が来た。だから、神の国が姿をあらわすと教えるのです。

そしてそれは、当時、キリストの周りに集まってきた人々、弟子たちだけの経験に留まることはない、光は燭台の上に置かれます。

内と外という言葉があるとすれば、外の人には謎であり続けます。それが主イエスのたとえであり、教えであるということが、このすぐ前のところには書かれていたわけですが、しかし、それは決して謎のままには終わらないのです。

燭台の上に置かれる「ともし火」のように光を放つ。そしてその光によって、人は誰もが光を見ることになります。

火をともすランプは、升が上に覆い被さることによって、共にお役御免となって、寝台の下に片づけられてしまうようなことにはならない。ともし火は燭台の上に灯り続け、升は秤として用いられます。

升、秤、それは、キリストのみ教えを聞く器であるわたしたちのことです。教会のことです。

升は秤として用いられます。量っては出し入れするように、あるいは、それが油であれば、それをランプの中に入れるのかも知れませんが、キリストの教えを聞き、またそれに仕える器なのだと主イエスは言うのです。

「何を聞くかに気をつけなさい」とは、聞くべきことを正しく選びとって聞くようにという意味もあるそうですが、どのように聞くのか、蓋としてともし火を消すもののように聞くのか、それとも秤として、ともし火に仕えるものとして聞くのか、どのように聞くのか、そういう意味もあるのだそうです。

いずれにせよ、わたしたちはキリストのみ教えを聞く器だということです。それは、ともし火の上に被さって火を消してしまう器としてではなくて、光のもとで、良きものを入れる器なのです。

その時、聞く者は「自分の量る秤で与えられる」だけではない、それ以上のことが起きます。自分で量るその秤で、確かに量り与えられるのでしょうが、更にたくさん与えられると主イエスは言われるのです。

良い耳を持たなければならない。聞き分ける耳を持たなければと、そう言われて、しかし、わたしたちの耳、わたしたちが量る秤以上のこと、「更に」多く与えられる。それが神の言葉の秘密であると主イエスは言われるのです。

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