2022年5月29日(日)復活節第7主日 宣教要旨

マルコによる福音書12章41~44節

「やもめの献金」

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

キリスト教小話、力自慢という話です。

サーカス小屋にはたくさんの人だかりです。見てみると、筋骨隆々、力のありそうな大男がオレンジを二つに割り、ギュウーと絞りました。もうこれ以上絞れないというほど、最後の一滴までしぼりきってしまいました。

そこで男は観衆に向って、皆さん、わたしがしぼりきったオレンジを、もし一滴でも、これからジュースをしぼれたら一滴1万円、いや5万円さしあげましょう。どうです。誰か挑戦してみませんか。

次か次へと舞台に上がってしぼってみました。力自慢の男のしぼりきったオレンジ、一滴もしぼりだすことができません。立派な体格の大男も挑戦しましたが、結果はだめでした。

すると、すみません。わたしにやらせてくださいませんか。出てきた男、大男とくらべてあまりにも弱弱しい小さな男。みないっせいにふきだしてしまいました。

大男は 雰囲気をもりあげようとからかい半分にオレンジを渡しました。さあどうぞ。

ところがどうしたことか。この小男、オレンジをしぼりはじめるとぼたぼた、五滴ものジュース。さあ約束です。五滴ですから25万円いただきます。

大男は声をふるわせて、あなたは一体何者か。なにをしている人か。この男は、わたしは教会で会計をしています。ないところからしぼりだすのがわたしの役目でして。

やもめの献金という話です。

主イエスが、賽銭箱に、人々がやってきてお金を入れる様子を、箱の向かい側に座って見ていました。

金持ちは、多額の賽銭を入れました。しかし、ありあまる中から入れたにすぎないと言いました。

弟子たちを呼び寄せ、一人の貧しいやもめが、レプトン銅貨二枚、小額の賽銭を入れたのを見て、誰よりもたくさん入れた。金持ちは有り余る中から入れたが、この人はとぼしい中から、自分の持っている物のすべて、生活費全部を入れたと言ったのです。

ある先生が、この話は説明のしようのない聖書の話の一つと言いました。やもめの献金は、書いてあること以上のことは言うことがないというのです。

彼女は、生活費全部、自分の一切を、神さまにゆだねてささげたからです。

またある人は、この話はうそにちがいないと言いました。やもめのいれたレプトン銅貨二枚、生活費の全部、主イエスはその内情をご存知でありました。

しかし、普通、生活費全部など賽銭としてささげるはずがありません。普通、半分を、一枚はささげても一枚はとっておくはずです。生活にはお金はかかるからです。

主イエスは見ていました。そのやもめをご存知でした。この貧しいやもめは、お金持ちが有り余る中から多額の献金をしているように見えるが、そうではない、やもめは誰よりもたくさんいれたというのです。

ベタニアの香油注ぎの話です。

アラビヤ産の高価な香油を主イエスにかけた女性がほめられました。

無駄遣いと責める弟子たちに、この人は良いことをしてくれた。福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことは記念として語り伝えられると主イエスは言いました。

一切を神さまに、主イエスにささげるかという、姿勢の問題と思います。

幼子主イエスにまみえるために、はるばる旅をしてやってきた東方の占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬をささげて帰りました。それらは、彼らの商売道具であったかもしれないと言われます。

ささげて生きるという生き方のことです。

実際、初代教会では、持てるお金の一切を差し出して、財産を処分して教会の活動に献金することがしばしばあったようです。

そういう時代、アナニヤとサフィラの夫婦が起こした事件がありました。

アナニヤとサフィラは、他の人たちもそうしているように、自分の財産を売り払い、お金を教会に持ってきました。これがわたしたちのすべてですと。

ところが、これがうそでした。財産を売ってつくったお金のすべてではなく、その一部だったのです。

そのことがばれてしまい、結局、ごまかしであることが分かり、夫婦は神さまに打たれて息絶えるのです。

ペトロが言いました。アナニヤよ、どうしてあなたは代金をごまかしたのか。売らなければ財産はあなたのものであった。売ってもお金はあなたのものであった。どう使おうとあなたの自由なのだから。

しかし、これがすべてですと一部を持ってきたごまかし、すべてが自分たちのものであってもかまわない。しかし、いつわってこれがすべてだと言ってきた。神さまをあざむいたと言われたのです。

聖書は、価値を逆転します。やもめの献金は本当の話であったでありましょう。ささげてしまってゼロになりました。何もかもなくなりました。そこに恵みがあるのです。

やもめの対極にある律法学者やファリサイ派の人々は、有り余る中からたくさん入れました。それが偽善となるのです。

この貧しいやもめを主イエスは愛されました。主イエスは、このような人々のために生き、十字架に死なれたのです。

この話は、実に本当の話、真実であったのです。

やもめの献金は、主イエス・キリストが、わたしたち罪人のために十字架に死なれたことです。神さまが人となり、罪人のために死なれました。

わたしたちのすべての恵みが神さまにあるのであり、すべてが、神さまからいただいたものなのです。

今までは、自分を中心に生きてきました。しかし、あるときには、自分の歩んできた道をたちきって、神さまを信じて生きることが必要です。

やもめの、明日のことは思い煩わない、そういう生活を、主イエスは弟子たちを呼び寄せて紹介したのです。

このやもめの献金は、マルコによる福音書もルカによる福音書も、どちらも文脈は、律法学者、聖書の専門家との生き方と対比しています。

自己保身、自分の立場を守ろうとする学者、自分を守らなければならない学者はやもめの家を食いものにするのです。

それに対して、あのやもめは自分の一切を空にして神さまにゆだねました。偽善が一切入る余地がないのです。

空にしないと入らないことがあるように思います。やもめこそ、本当に豊かにされたと思うのです。

今からでも遅くありません。わたしたちもある時、すべてを空にして神さまの前に出なければなりません。

高見順という作家の文章です。

早朝、徹夜で執筆した後、散歩をした。新聞配達の少年が、まだほのぐらいまちで新聞を配達しているのに出会った。

それを見て、自分は作家だが、人の心に言葉を配達しているだろうかと思った。少年は新聞を配達している。

人は何でも、配達できるときに配達しなければならない。わずかなものでも配達できないときがくる。自分も配達しなければならない。

何かをとどけなければならない、ささげる生き方をという、作家の目です。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加