2022年4月17日(日)復活節第1主日 復活日 宣教要旨

マルコによる福音書16章1~8節

「復活する」

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

金曜日の9時、エルサレムのゴルゴダというところ、されこうべの場所という意味のところで、十字架につけられ、午後3時頃、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですかと大声で叫ばれて、主イエスは、息を引き取られました。

キリストの十字架の死の様子です。

受難週の1週間を、福音書は一番の分量で報告します。ユダの裏切り、逮捕、裁判、十字架刑です。

なぜ神の子が十字架につけられるに至ったのかは、最大の疑問です。

福音書の報告の仕方は、神さまのご計画、預言の成就と報告します。細部の出来事が、神さまのご計画であり、そのことを預言している旧約聖書に対応している、すなわち、神さまのお考えであったというのです。

もちろん、ユダの裏切りがきっかけでした。何故ユダが裏切ったのか、ユダという人物の配役についての問いがあります。しかし、聖書はそのままには答えていません。やはり、神さまのお考えであったというのです。

大祭司が議長の裁判の判決は、神を冒涜したというものです。

主イエスは、自分をメシアと認めたのでしょうか。そのこと自体は、当時、罪ではありませんでした。

十字架刑の責任は、ユダが裏切りによるのではありません。ピラトの判決も、主イエスがユダヤ人の王なのか、そうなのだろうとも読めます。しかし、それが理由ではありません。

ユダヤ教の指導者たちとの確執でした。

しかしそれらをすべてふくめて、神さまのお考えのうちに、御子の死がそなえられていったのです。

神さまの独り子イエス・キリスト、まことの神が、まことの人となられ、ひとりの人として十字架に死なれたのです。

福音書は、主イエスの最後の言葉のひとつを記しています。レマ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかです。直接には、絶望の叫び声です。神さま、なぜわたしのことを見捨ててしまわれたのですか。なぜ助けてくださらないのですか。あなたの子はなすすべもなく十字架に苦しんでいるのですと。

いろいろな解釈がありますが、十字架に、主イエスは、わたしたちと同じように苦しみ死なれたのです。

キリストの十字架の死は、ローマ帝国の反逆者に対する処罰でした。十字架刑は、長く苦しまなければならないみせしめの刑でした。そこに、主イエスは、罪なくしておとしめられたのです。

主イエスの最後の言葉は、絶望の言葉であったのでしょうか。信頼の言葉であったのでしょうか。

それを見ていた百人隊長は、キリストが息を引き取られるのを見ていて、本当にこの人は神の子であったと言いました。

人として苦しまれ死なれたということは、こうごうしいことではありません。主イエスは、わたしたちと同じように、わたしたち以上に苦しまれ死なれました。それは、神さまのご計画であり、神さまのお考え、わたしたちへの愛であったのです。

十字架の死の様子の話が長くなりました。本当に神さまが地上を歩まれ、人として十字架に死なれた事実を、心にきざみつけておかなければならないと思うのです。

共に苦しむ、苦しみを共感してくれる人がいます。他者の存在、隣人の存在があります。

キリストにある救いがあります。十字架に苦しまれ人として死なれた方に、わたしたちの救いがあります。救われていること深く知るようになったのが、キリストの十字架の死だと思うのです。

金曜日、安息日の前の日です。日没とともに安息日がはじまります。

すぐに、アリマタヤ出身で身分の高い議員のヨセフが、勇気をだして、ピラトに遺体を引き取りたいと申し出ました。

自分のための墓であったのでしょうか。家族のための墓であったのでしょうか。まだ使ったことのない墓に、主イエスを埋葬します。

亜麻布を買い、時間にかぎりがあったのでしょう。若干の香料をほどこし、墓の中にお納め、入り口に石をころがし封をしました。

その様子を、ガリラヤからきた数人の女性が見とどけ、安息日があけた日曜日の早朝、墓にいそぐのです。

復活の朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが、香料を買い、墓にいそぐのです。もっと丁寧な埋葬をしたかったのでした。

女たちは、石を動かせるか案じました。しかし、すでに石はわきにころがしてあったのです。

墓に入ると、白い長い衣をきた若者が、驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさってここにはおられない。ごらんなさい。ここがお納めした場所であると言いました。

十字架につけられたナザレのイエスは、死に、ここに納められた。しかし、あの方は復活なさった。復活させられた。神さまが引き上げたのです。

空虚な墓の報告は、4つの福音書に共通の証言です。

さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われた通りそこでお目にかかれると。

婦人たちは驚き逃げさりました。それ以上に、震えあがり正気を失ってしまったのです。 

婦人たちは誰にも何も言いませんでした。恐ろしかったのです。

マルコによる福音書の復活の朝の報告はこれだけです。簡潔です。

結び1と結び2と、みじかい結びと長い結び、マグダラのマリアへの復活顕現とふたりの弟子への顕現がありますが、これらは後代の加筆と言われます。

マルコによる福音書は、恐ろしかったからであると結んだのです。

宗教がどういうふうに始まるのか。キリスト教も宗教として出発しました。キリスト教はどうして成立したのかという議論があります。

わたしたちも信仰生活をはじめようと誰かが言い出したのでしょうか。復活の信仰を誰かが言いだし始めたのでしょうか。信仰を誰かがつくったのでしょうか。誰かが言い始めた信仰を大勢の人が信じはじめ、大勢の人の心が動いたのでしょうか。しまいには、世界的な大宗教になってしまったのでしょうか。

キリスト教という宗教がどういうふうに始まったかという話です。そういう説明が一番日本人にはわかりやすいのかもしれません。

しかし、わたしたち、教会で聖書を読んでいる者はそうは考えません。

失意の弟子たちを立ちあがらせたのは、復活の信仰によることは間違いのないことです。

だれか頭のよい人がいて、こういう宗教をつくりあげたのではありません。マルコによる福音書は簡潔です。復活の朝の記録には、そういう意図はなかったことがわかります。婦人たちは恐ろしかったのです。それだけでした。

神さまがキリストを復活させたのです。神さまの力が働いたにちがいありません。神さまの御手が働いたのです。

キリストの十字架の死と復活の事実がわたしたちの信仰の出発点となりました。

ガリラヤで弟子たちはふたたび主イエスと出会います。おなじように、わたしたちもキリストにここで出会っているのです。

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