2022年4月24日(日)復活節第2主日 宣教要旨

マルコによる福音書16章9~18節

「弟子たちに現れる」

16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

マルコによる福音書は、16章8節で終わっていたというのが定説です。

16章8節です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」ここで終わっているのです。

今日読んだ箇所は、新しい年代の写本に現れます。復活の主イエスが、マグダラのマリアに現れたこと、田舎の方に歩く二人の弟子に現れたこと、長い結び、短い結びと言います。

このように、9節以下は、後代の加筆かもしれません。しかし、内容は偽物ではなく真実です。マグダラのマリアにあらわれたことは、平行記事の、マタイによる福音書とヨハネによる福音書も書いています。二人の弟子への現れは、ルカによる福音書のエマオ途上の物語のことでしょう。クレオパともうひとりの弟子のことと思います。

また、11人の弟子に現れたことは、パウロの手紙や、ルカによる福音書、使徒言行録、ヨハネによる福音書にもでてきます。

このように、マルコによる福音書の16章9節以下は、もともとはなかった話ではなく、他の福音書にはありますので、この部分は事実だということです。

さて、主イエスは、週の初めの日の朝早く、日曜日に復活して、まず、マグダラのマリアにご自身を現わされました。

現されとは、変な表現ですが、神的受動態といって、主イエスは現れたという意味です。

マグダラのマリアは、聖書では特別な女性として出てきます。4つの福音書すべてが、彼女は、主イエスの十字架の様子を、埋葬を見届けていることを報告します。また日曜日に、主イエスの墓に急いだ婦人たちの最初に名前が出てきます。そして、復活の主イエスに最初に出会ったのも彼女でした。

最初に出てくるのは、ルカによる福音書8章1節から3節です。悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリアです。ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナ、その他多くの婦人たちが、自分の持ち物を出しあって一行に奉仕していました。

マグダラのマリアは、主イエスに、7つの悪霊を追い出していただいた女でした。7つの悪霊というのは、重い病気という意味です。

マグダラのマリアも、主イエスを、自分を救ってくださった方の十字架に、また会えると言われても、信じることもできず逃げ帰りました。しかし、復活の主イエスに出会って、恐れながらも大いに喜び、すぐにこのことを悲しんでいる弟子たちに知らせたのです。

十字架に死んだ方が生きていたのです。

次にふたりの弟子に現れた話です。エマオ途上の物語として、ルカによる福音書で有名です。

失意の弟子たちと一緒に歩いている主イエス、同伴者イエスです。この二人は、見たことあったことを残りの弟子たちに知らせます。ところが、他の弟子たちは信じません。

さらに、主イエスは、とうとう11人の弟子たちに現れます。そして主イエスは彼らをとがめるのです。不信仰とかたくなな心をとがめたのです。

復活の主イエスに出会った人々の言うことをまったく信じようとしなかったからです。

しかし、彼らはキリストに出会って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさいという命令を聞いて、福音を伝えて行くことに死にものぐるいになるのです。

作家の遠藤周作さんが、イエスの生涯、キリストの誕生という本で、十字架と復活の出来事が、この福音がおどろくほどの速さで伝えられていくことは不思議であると書いています。

当時、主イエスの運動以外にも、ユダヤ教の中からいろいろな宗教運動、政治運動が生まれ、それぞれ指導者がいて、神とあおがれていた者もいます。しかし、キリスト教のような世界宗教が生まれたという形跡がないのです、

キリスト教は本当に不思議な宗教で、その発展は、奇跡的と言ってよいのです。

遠藤さんは、十字架の出来事には、取引があったと推論します。主イエスだけが十字架に死に、他の弟子たちはとがめられません。逃げているようではあるが、主イエスだけを捕え、処刑し、その他の弟子たちは見逃しているというのです。

弟子たちは、皆熱狂的な主イエスの信奉者でした。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、エルサレムで、主イエスが栄光をお受けになるとき、ひとりを右にひとりを左にと願いました。

トマスは死ぬ気で主イエスについてきました。他の弟子たちも同じです。しかし、不思議なことは、主イエス以外、とがめられなかったのです。

それ以上の推論は省略します。主イエスの十字架には、何らかの取引があったのではないでしょうか。

十字架と埋葬の間、弟子たちはエルサレムの近くにいるのですが、姿を現しません。主イエスに会うのが恐ろしかったのです。自分たちが主イエスを十字架につけたようなものだからです。

その主イエスが復活したと聞きます。とうてい信じられなかったし、誰も信じようとしないのです。事実ならば、何があるかわからないと思ったのでしょう。

キリスト教の展開は、その主イエスに出会って、弟子たちは福音を宣べ伝えます。そしてこのことは、奇跡であったとしか、理解できないというのです。

弟子たちはキリストに救われました。そのキリストが弟子たちに現れて。福音を宣べ伝えなさいと言われるのです。

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