2020年5月24日(日)復活節第7主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書7章37節~39節

「生きた水の流れ」 大三島義孝牧師

7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

今日与えられたみ言葉は、「乾いている人は誰でもわたしのところにきて飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」です。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、主イエスは立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

ユダヤの三大祭りのひとつ、仮庵のまつりの終わりの日に主イエスが言われた言葉です。

祭りの終わりの日にどういうことが行われたかというと、水注ぎです。シロアムの池から運び上げられた水が、神殿の祭壇に注がれ、祝われました。

エルサレムという町は、もともとエブス人のとりでであったところです。それをダビデ王が攻略して奪い取り、都とした町でした。

高い丘の町ですが、泉があったのです。エルサレムは 水が出たのです。ふたつあって、ひとつはエン・ロゲルという泉です。この泉は町の外、城外にありました。ヒンノムの谷とキデロンの谷が合わさる合流点にエン・ロゲルという泉がありました。

もうひとつは、城内、城壁の中にギホンという泉がありました、町の中にあったこのギホンという泉のおかげで、エルサレムは丘陵地帯ながら、町として発達した理由でした。エルサレムは水源があったのです。

ダビデ王がこのとりでをエブス人から攻略したと話しました。そのときの攻め方です。エブス人は不時のとき、いざというとき、敵に知られないように、城外にあったキデロンの谷の水をくみあげるために、城外から城内に岩をくりぬいて、縦穴トンネルを作っていたのです。そのトンネルをダビデ王が見つけて、全長39メートル、高さ13メートルの縦穴を、そこをダビデの軍がよじ登って、エブス人を打ち破ったのでした。攻略に、水をくみ上げる通路が使われたのでした。

そして、城内にあった唯一の泉、ギホンの泉からシロアムの池に、ヒデキヤ王の時代に、アッシリアのセンナケリブ王の侵入にそなえて、ギホンの泉と町の南西端にあったシロアムの池を、地下水路、直線269メートルの、屈折してS字にほられた500メートル以上の水路をつくりました。もしものときの水を確保です。その水が、祭りのクライマックス、祭りの終わりの日に、シロアムの池とギホンの泉から運ばれ、水が注がれたのです。

まさに命の水でした。この、主イエスが言葉を言われたのは、エルサレムのユダヤの三大まつりのひとつ、仮庵の祭りの最中、その終わりの日のことだったのです。

ユダヤの三大まつりは、いずれも出エジプト前後、民族の苦難と喜びの歴史を起源としています。約400年の間、エジプトで寄留の生活を送っていたイスラエルの人々は、モーセを指導者に、エジプトを出ます。出エジプトです。

 イスラエルの家だけは初子の死を過越していただいた過越の祭り。シナイ山で律法を授与された出来事に由来する7週の祭り。そして今日の聖書の祭り、仮庵の祭りです。エジプトを出たイスラエルは40年の間、荒野をさまよった時代、民族は仮の庵、移動式のテント生活を続けました。しかし、仮住まいでありながら、住まいが用意され、朝にはマナ、夕にはうずらの食べ物が与えられました。

飲む水がないとつぶやく民に、モーセが杖で岩を打つと水がほとばしり出て、民はかわきをいやすことができました。エジプトを出た民族の、仮住まいの経験を祭りに思い出したのでした。民族の苦難、しかしそこにこそ働いた神さまの恵みをいつも思い出すようにしたのです。

荒野の40年を、仮住まいが与えられ、民は養われました。その祭りの最後の日に、命の水が与えられ、人は生きました。エルサレムの池から水がくまれ、故事を思い出し、水をふりまき祝ったのでした。

 仮庵のまつりの最後の日は水の祭りです。主イエスが、乾いている人はだれでもわたしのところにきて飲みなさいと。主イエスこそ、新しい水、命の水と言ったのです。人々を生き生きとさせたにちがいありません。

わたしたち信じる者は主イエスから水を飲みます。パウロが書いたコリントの信徒への手紙一の10章です。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」

パウロも、わたしたちの先祖は皆同じ食べ物を食べ、同じ飲み物を飲んだと、モーセが杖で岩をうつと水がほとばしり出たという故事をあげます。

わたしたちキリストを信じる者は、霊的な岩から、すなわち、キリストという岩から霊的な水を飲みます。

聖書(旧約聖書)に書いているとおりと言われました。

わたしたちは、キリストという岩から、命の水、聖霊を飲みます。飲んだ人は、その人の内から、生きた水が川となってまた流れ出るようになります。隣人から隣人に、水を、聖霊を飲むようになるというのです。わたしたちはキリストから霊の水を飲んで、わたしたちは川のようになって、水が流れ、生きた水を飲ませる川となるのです。

社会科の先生がクラスの生徒に、世界を変えるにはどうしたらよいかという課題を出しました。ミミ・レダー監督の「ペイ・フォワード」という映画の最初のところです。

世界を変える、世界を良くするにはどうすればよいでしょうか。この世の中は矛盾だらけ、問題だらけ、事件や犯罪、戦争のある難しい世の中です。世の中、仲良く暮らすことは難しいのです。なかなか答えが出ない問でした。

トレバーという少年がある答えを見つけます。世界を良くする、その方法は、受けた親切を3人の人に返す、ペイ・フォワード、次に渡すように。次の人も、また3人の人に親切を渡すというものでした。

その方法を見つけた少年トレバーは、実際に3人を選んで親切を実行始めます。しかしこれがうまくいきません。親切のつもりがおせっかい、迷惑に受け取られ、不幸を生んでいきました。

少年は悩みながらも、とにかく親切をつづけます。親切がもとでうらみをかい、ナイフで刺し殺されるのです。ペイ・フォワード、次に受けた親切を渡せという方法を見つけた少年が死んでしまったのです。

すべては無駄に見えました。ところが、少年が生きている時、少年のペイ・フォワードという方法に興味をもって取材した新聞記者のビデオが公開されます。そしてペイ・フォワードが、アメリカ中に広まり、奇跡が起きていったのです。

この映画は、実はイエス・キリストの生涯を描いたものでした。ただ、奇跡をぬきにした奇跡、現代にも奇跡というのは起こるということを、映画をもって訴えた作品でした。

わたしたちは、キリストから水、命の水を飲みます。命をいただきます。そのわたしたちが、生きた水の流れる川になります。また、ペイ・フォワード、次の人に水を飲ませる川になるのではないでしょうか。

今日の聖書で、水は霊のことであると書いてありました。霊は、息、風、命、見えない命、神さまの力のことです。聖霊を主イエスは約束されました(ヨハネ福音書14章、16章)。

人生は川くだりです。命の水、流れる川、聖霊の時代をくだります。十字架に死に、三日目に復活された主イエス・キリストの聖霊をいただいて、わたしたちが生きた水の流れ、わたしたちも生きた水の流れる川になるのです。

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