2022年1月9日(日)降誕節第3主日 成人礼拝宣教要旨

マルコによる福音書1章9~11節

「主イエス、洗礼を受ける」

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという箇所です。

そのとき、天が裂けて、聖霊が鳩のように降ってきました。

天が裂けたとは、言葉通り、天が、今引き裂かれつつあるということです。天を覆っていた黒雲が、何かの手で引き分けられるかのように、みるみると黒雲が引き裂かれ、割目に青空が広がり始め、日が差し、黒雲に覆われた心が、何かの力によって引き裂かれ、光が差し込んだかのような光景を思い浮かべる書き方です。

旧約聖書、イザヤ書63章の言葉です。「どうか天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」、

この口語訳です。「黒雲に閉ざされた人々に、天の青空が見えない日々、どうか天を裂いて降ってください。」これは神さまの御業を見せてくださいという願いの言葉です。山々が揺れ動くかのような御業を見せてくださいというのです。

また、聖書の最初の言葉、創世記1章です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」

神の霊が水の上を動いていたという表現は、鳥が空を舞う姿を思い描くとよい、そういう言葉だそうです。神さまの霊が、鳥が空を舞うかのように動いていた。そして、その働きが地に及ぶことになるというのです。

さらに、「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」創世記の1章です。

主イエスが洗礼を受けたとき、旧約聖書の言葉のように、神さまの霊が新しく動き始め、神さまの創造の、新しい歴史が始まったというのです。

同じように、天が裂けて、霊が鳩のように降って来るのをご覧になりました。

そして、それだけでなく、天からの声を聞いたのです。神さまの声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」

愛する子は、独り子を意味するように、神さまのたった独りの子、愛情を一身に受け、賜物を受け継ぎ、心に適う者、親の心を実現する子のことです。王子と言ってもよいかもしれません。天からの声は、そういうように聞こえたというのです。

主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことは、不思議なことです。

罪の赦しの悔い改めの洗礼を、人々がぞくぞくとやって来て、ヨハネから洗礼を受けました。その列に、罪のない神の子が、一緒に並んで洗礼を受けたのです。罪がないにもかかわらず、罪人と同じ列に入り、罪人と数えられることを甘んじて受けたのです。

洗礼者ヨハネの手が置かれ、水に沈められました。古い自分は水に死んで、そして、新しい命に誕生するのです。水から引き上げられたのです。

主イエスも、わたしたちと同じような洗礼を受けました。そのとき、天が裂けて、霊が鳥のように降り、天が開いて、神さまの御声が聞こえたのです。これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と。

代々の教会は、この御声を聞き取るために、背景として、三か所の旧約聖書の言葉をあげて聞き取りました。

一か所目は、創世記22章、モリヤの山での話です。

信仰の父といわれたアブラハムが、その子イサクを燔祭のささげものとして、命をささげようとする話です。

アブラハムとサラとの間には、なかなか子供が生まれず、老齢になってさずかります。その独り子イサクを、神さまは、アブラハムにささげなさいと命令するのです。

今日の箇所とのつながりで、代々の教会はこの物語を思い出しました。創世記で、何度も、神さまは、アブラハムに、あなたの独り子、あなたの子と言っているのです。

このささげようとされたイサクの代わりに、雄羊がそなえられます。イサクの姿と主イエスの姿が重なるのです。神さまは、子なる主イエスを、今度は差し出すのです。

二か所目は、詩編2編、王の詩編です。

「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ、主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」

イスラエルに王が立てられるとき、必ずこの詩編が読まれ、歌われました。

激しい歌です。まことに力あふれた王が、神さまのご命令で、その意志によって立てられる。地上の国々はこの王にさからい、騒ぎたち、結束し逆らう。しかし、神さまは御心に適う王を立てるのであると。

わたしの子と呼ぶ詩編2編は、のちにはメシア、すなわち救主を歌う歌として理解されます。

このように、神さまが立てられる王、メシアは、主イエスと重なるのです。

三か所目は、イザヤ書42章です。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者をわたしが選び、喜び迎える者を、彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」主の僕の歌、イザヤ書の後半、第2イザヤと言われるその主の僕の歌の中の一節です。

ここは主イエスのお姿をそのまま描いたものです。苦しみの中に、罪人のひとりとして数えられ、身代わりの死を引き受けるお姿です。

「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を、わたしが選び、喜びを迎える者を、彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して確かなものとする。」

このように、代々の教会は、今日の主イエス受洗の、神さまの御声に、三か所の旧約聖書を重ねて読んできました。

ご自身を犠牲としてささげる者としての姿、神さまから王として立てられ、赦された者の姿、罪人が滅ぼされることなく生かされるために、みずからは僕となって、仕える者の姿です。

教会は、主イエスについて、まさに言われたものとして、賛美と感謝をもってほめたたえたのです。

そのとき水から上がると天が裂け、天が開きました。霊が鳩のように降り、天の声、父なる神さまの御声が聞こえました。あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。

この声は、主イエスのご生涯にもう一度、山上の変容のところで聞こえます。

そしてもう一度、十字架で、天が裂けました。主イエスが十字架に息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が真二つに裂けたとあります。これが、天が裂けたと同じ言葉なのです。

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