2022年8月21日(日)聖霊降臨節第12主日 宣教要旨

マルコによる福音書12章1~12節

「ぶどう園と農夫のたとえ」

12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。

12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。

12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」

12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

エルサレムの神殿の境内で教えられた主イエスのぶどう園と農夫のたとえ話です。

ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り(しぼり)場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。

ある人は、神さまのことです。そして、ぶどう園は、神の民イスラエルのことです。

イスラエルは、神さまのぶどう園にしばしばたとえられました。聞いている人たちにはこのことがわかったはずです。

聞いている人たちとは、主イエスと敵対関係にあった祭司長、律法学者、長老たちです。彼らは、主イエスが何を細かく言いはじめたかを、わかっていたのです。

たとえの初めは、イザヤ書5章の預言を思わせる箇所です。

イザヤ書5章は、こういうふうな言葉です。わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。

神さまはぶどう園を造られました。準備し、わたしたちに貸してくださいました。

わたしたちの住む世界は神さまのぶどう園です。すべては借りているものです。住まいも、着るものも、食べ物も、備えられたものなのです。

財産は、借りているものです。借りているものですので、返さなければなりません。しばらく借りているのです。

時間も神さまから借りています。この人には何十年とかです。わたしたちには借りている時間が、あとどのぐらい残っているのかはわかりません。

すべては神さまの持ち物です。すべて、貸していただいているのです。

イザヤの5章と、主イエスの神さまのぶどう園のたとえとは、少し違うところがあります。イザヤ書は、良いぶどうが実りません。神さまは、良いぶどうが実るのを待ったが、実ったのはすっぱいぶどうだったのです。

それで、イザヤ書では、神さまは、すっぱいぶどうしか実らせないイスラエルの囲いを取り払い、石垣を壊し、焼かれるままにまかせ、人に踏み荒らされるのです。

ぶどうの枝を刈り込まず、耕さず、茨やおどろがおい茂るにまかせるであろう。誰も主の働きに目を止めず、御手の業を見ようともしない。

ところが、主イエスのたとえはこうです。収穫の時になったので、収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところに送ったのです。

イザヤの預言では、良いぶどうが実りませんでした。一方、主イエスのたとえでは、ぶどうが実ったのです。

ぶどう園は、なかなかぶどうの実が実らないのです。何年も実がつくまでかかります。

このご主人は、投資し、ぶどう園を用意し、必要なものを用意し、農夫たちに貸しました。やっと実りが出はじめたので、収穫を受け取りに僕が遣わされたという意味なのです。

わたしたちの世界は、わたしたちの人生は、神さまから託されたぶどう園です。その収穫を迎える、実りがあるのです。

すると、ご主人は、収穫を受け取りに来ました。ところが、与えられたものを指し出せばいいのですが、農夫たちは強欲でした。

収穫を自分たちのものにしようとして、次々と遣わされた僕をつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで帰したり、頭をなぐり、侮辱して帰したり、さらに、もうひとり送ったが、今度は殺してしまったというのです。

その他にも多くの僕を送ったが、あるものは殴られ、あるものは殺されたというのです。

財産やお金は大事です。しかし、人は自分のものにしたいのです。みさかいがつかなくなるのでしょう。

ご主人の遣わした僕たちはイスラエルの預言者たちです。旧約の預言者、そして、主イエスの道備えをした洗礼者ヨハネです。

神さまの僕は、預言者たちを暗示するのです。

とうとう、このお話は、たとえ話はつじつまの合わないことになります。こんなことがあるのだろうかという話になります。

ご主人は、まだひとり愛する息子がいたと、自分の息子を送るのです。

すると、農夫たちは話し合い、これは跡取りだ、さあ殺してしまおう、そうすれば相続財産はわれわれのものになるだろうと思ったのです。

これは、神さまの独り子、イエス・キリストの十字架の死を暗示します。

たとえは、農夫たちは、遣わされた息子をつかまえて 殺し、ぶどう園の外にほうりだしてしまったのです。

このたとえ話はずいぶん乱暴な話です。ご主人は戻って来て、この農夫たちを殺し、他の人たちにぶどう園をまかすのではないかというからです。

また、このたとえ話は不思議です。ご主人は、これほどまでの侮辱を受けたにもかかわらず、自分の一番愛している息子を最後に遣わすのです。

このたとえは、理不尽です。

しかし、主イエスのたとえは、ありそうもないたとえなのですが、本当のイスラエルの歴史を、人間の世界をたとえたのです。

神さまが造られた世界に、わたしたちは人生を生きます。これほどまでに実りある人生が与えられているのではないでしょうか。

そして、わたしたちは僕を侮辱します。ご主人をなきものにしようと、すべてを自分のものにしようという態度を取るのです。

しかし、神さまは、これほどまでに侮辱されながらも、ご自分の独り子を遣わしてくださったのです。

すべて人の罪のために、すべての罪を背負って十字架に主イエスは死にました。祭司長、律法学者、長老たちのみならず、すべての人のために主イエスは死にました。

新しいイスラエルが、神さまのぶどう園がわたしたちに与えられているのです。

たとえは、壮大な人類史であり、救済史です。

聖書にこう書いているとは、詩編118編からの引用です。家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。

詩編118編は少し長い詩編です。恵み深い主に感謝せよとはじまります。苦難の時、国々に包囲された時、責められ、倒れそうになった時、主は答え、わたしたちを解き放ち、わたしたちを救ってくださった。主はあらゆる時、わたしたちの救いとなってくださった。

ですから、わたしたちは死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。そういう詩(うた)です。

家を建てる者のしりぞけた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。詩編118編22、23節です。

十字架を前に、受難週に、エルサレム神殿の境内で、主イエスは、わたしたちに、敵対するユダヤ教の指導者たちに、ご自分の死が神さまのお考えだとたとえたのです。

神さまは、わたしたちを愛しておられます。ぶどう園を造り、あらゆる準備をし、ぶどう園を託されました。

しかし、わたしたちは罪深い者なので、僕を侮辱したり、殺したりします。そういうわたしたちを、神さまはあくまでも愛してくださって、ご自分の息子、主イエス・キリストを十字架に送り、愛を示してくださったのです。

不思議に見える、驚くべき神さまの御業のたとえです。

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