ヨハネによる福音書5章31節~40節
「主イエスについての証し」
5:31 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。5:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
5:33 あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。5:34 わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。
5:35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。
5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
5:37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。
5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
主イエスはどなたかという証言、主イエスについての証しというお話です。
証人の証言の有効性が問われます。旧約聖書では、2人か、それ以上の証人の証言が必要でした。(申命記35章、民数記17章、19章)
旧約聖書の証言の一番の特徴は、神さまが証人となるということです。人と人との約束でも、神さまが証人として、証言しておられるということが一番の根拠となりました。
証言の反対は偽証です。偽証は、すなわち、神さまへの罪となります。それで、証言には、決して偽証してはならないといういましめがあるわけです。(十戒の第9戒)
今日の聖書の箇所は、主イエスについての証し、証言はというところですが、裁判の法廷のようなやりとりが続きます。
どういうことがやりとりされたのかというと、それは御子の権威問題でした。すなわち主イエスは、自分は、いわば神の子なのだと言うので、当然ユダヤ人たちはそのことに激怒しました。何の証拠があるのか、誰が証言するのか、証人はいるのかとくってかかってきたのです。
そういうユダヤ人たちに、主イエスは自分が神の子であることを、何が証ししているのか、証人がいるのだと言いました。それも、旧約聖書の証人の決まりに従って、複数の、2人以上の証人がいると言いました。そして最も大事な証人である神さまが、自分を神の子と証言していると言ったのです。
主イエスのご自分についての証しは、主イエスが言われたように4つの証しです。
最初の証しは、主イエスを証しする方は、父なる神さまであるという証しです。もし、わたしが自分自身について証しをするならば、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。父なる神さまであると。
自分で自分を証しするのは、もちろん真実ではありません。自分のことを自分で証言する、証人は自分だというのはおかしなことで、それでは真実でないということです。裁判は、他の人の証言が必要だからです。
私について証しをなさる方、その方の証しは真実であると、何よりも父なる神さまの証言をほのめかしたのです。
このことが一番大事なのですが、ユダヤ人たちは一番 赦せなかったのです。
主イエスは、何よりも自分を証しする方がおられる、父なる神さまであるというのです。
2番目の証しは、洗礼者ヨハネの証しです。
主イエスは、ご自分のことをヨハネが証していると言います。預言者、神さまから遣わされた人、洗礼者ヨハネは主イエスを指し示した人でありました。指し示すは、指という言葉です。まさにヨハネは主イエスを証しする指でした。
あなたたちはヨハネのもとへ人を送った。彼は真理について証しをした。ヨハネはもっともふさわしい証人であるとユダヤ人も認めていました。高く評価され、証人の中では別格であったでありましょう。ヨハネは燃えて輝くともし火でありました。
ところが、主イエスは、ここでは、洗礼者ヨハネさえも、自分の証人には数えません。わたしは人間による証しは受け入れないと言ったのです。
主イエスの言葉は、洗礼者ヨハネの証言は、証言としてとりあげないというのです。戸惑う言葉です。
証しという日本語は、証言と証明という言葉の違いがあります。
ユダヤ人たちは、主イエスは誰か、2人以上の証言でその真実を証明してほしいと言いました。それを主イエスは、ヨハネの証言は証明とはならないと言ったのです。
証明は、数学的、科学的、客観的な意味です。証言はそういう証明ということでありません。人間的な、論理を超えた証言ということです。そういう意味で、ヨハネの証言は証言だがと認めつつも、自分を証言する者は自分でもなく、ヨハネでもなく、父なる神さまだというのです。
自分は神の子であると立証するのは、主イエスについての証しは、いかなる人間でもない、父なる神さまご自身がなさると言ったのです。
私たちは神さまを信じています。クリスチャンはキリストを信じています。イエスは主であると告白して生きています。
それを証明しなさいと言われると、どうでしょうか。証言はあるが、証明はないのです。自分が証言したから、わたしはクリスチャンであるとは言えないのです。いえ、誰も証明しなくても、イエスは主であります。
つまり、主イエスのご自分についての証しは、人間的なことをはるかに超えたことにあるのです。わたしにはヨハネの証しにまさる証がある。わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。繰り返しになりますが、主イエスを証しするのは、父なる神さまなのです。
3つ目は、主イエス自身の業による証しです。
わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。主イエスの業が、主イエスの神の子であることを証ししています。
業はしるしであり、奇跡です。ベトザタの池で、38年間動けなかった人が、主イエスによって起き上がりました。奇跡の業を見たら、救主と信じるのではないでしょうか。目の見えない人が見えるようになったら、主イエスは救主、メシアと信じるようになるのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネは捕らえられ、牢にいました。ヨハネは人を遣わして、来るべき方はあなたなのでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんかと問いました。
主イエスは、行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされていると言いました。
一体何が起こっているかをよく見なさい。それが、わたしが誰であるか、来るべきメシアであるかどうかを証ししていると。
3つ目の証しは、業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証しています。
主イエスの業は、愛の業でした。
主イエスが十字架におかかりになると、人々は十字架から降りてみろ、そうすればお前が神の子であると信じてやるとあざけりました。
業は単に奇跡やしるしのことではありません。十字架に現わされた神さまの愛の業です。
4つ目の証しは、聖書による証しです。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだと言いました。
聖書は、ここでは旧約聖書のことです。旧約聖書のイザヤ書53章、苦難の僕の歌はイエス・キリストを預言した箇所です。詩編40編は、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されています。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻み、大いなる集会で正しく良い知らせを伝え、決して唇を閉じません。
詩編は、主イエスのことを証ししています。
ユダヤ人は聖書を研究していました。しかし、あなたたちは一生懸命聖書を研究しているけれども、肝心のそのことが分かっていない。しかし注意深く読めばそれがわかるはずだ。これは私について書いてある書物なのだというのです。
主イエスについての証しということで、4つの証し、父なる神さま、洗礼者ヨハネ、主イエス、聖書の証言と、証人、証しの話をしてきました。何よりも、十字架にあらわされた神さまの愛の業が証しであると思います。主イエスの十字架は、わたしたちの命のための十字架でした。永遠の命が聖書に証しされています。