ヨハネによる福音書6章22節~33節
「主イエスは命のパン」
6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
主イエスは、そのものずばり、わたしたちを日々生かしてくださる糧、主イエスは命のパンです。
普通、わたしたちを生かすパンは3種類あります。
ひとつは、肉体を生かす、肉体を養うパンです。パンでも御飯でも、食べ物、すなわちパンが必要なことは言うまでもありません。
2つ目は精神的なパンです。心の支えになるもの、たとえば人の言葉に、どれほど救われてきたことでしょう。
3つ目は霊的なパンです。御言葉のパン、キリストそのものと言ってもよいでしょう。
ヨハネによる福音書の6章は、パンをめぐる奇跡と、主イエスは命のパンというお話です。
しかし、人はなかなかわたしたちを生かすパンが何であるかを理解しません。それは6章のはじめのお話でも、5つのパンと2匹の魚のお話でも、5000人の人が満腹したのですが、それが霊的なパンの話とはわからなかったのです。
人は肉体を養うパンには敏感です。パンに満ち足りると、心も満たされ、幸せを感じます。
主イエスは、あなたがたがわたしを探している、それはしるしを見たからでもない、パンを食べて満腹したからだと言われました。人は主イエスを、求めるパンのために探します。見えるパンに満たされることで、主イエスを探しているのではないでしょうか。
もちろん、見えるパン、食べるパンが必要なことは 言うまでもありません。聖書もパンの問題を、飢えをわたしたちの問題と記しています。アブラハムはカナンの飢饉で、エジプトに避難します。その次の次、ヤコブの時代にも、飢えに襲われます。ヤコブは、11番目の子ども、エジプトに売られ宰相になったヨセフのいるエジプトに食料を買いに行きます。このように、とにかく、見えるパンがいかに大事かを聖書は記しているのです。
こころの問題、心のパンも大事と話しました。わたしたちは人の言葉に傷つき、また一言の人の言葉に慰められ励まされる毎日を過ごしています。
今日の聖書に戻りますが、主イエスは、あなたがたが わたしを探しているのはパンを食べて満腹したからか。そうでなく、あなたがたは朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさいと弟子たちに言われました。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物であるというのです。
それでは神の業を行うためには何をしたらいいでしょうか。主イエスは、神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業であると言われました。
それで、弟子たちの方から、信じられるようには、どういうことをしてくださったのかと問いました。わたしたちの先祖は荒野でマンナを食べましたが、天からのパンを彼らに食べさせたと書いてあるのはどういうことですかと問うたのです。
主イエスはお答えになりました。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく。わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは天から降って来て世に命を与えるのである。
天からのパンという言葉には、特別な意味がありました。
旧約聖書、出エジプト記です。エジプトを出たイスラエルは飢えに直面します。食べる物がない、エジプトにとどまっていたほうがよかったと不平不満を言います。モーセが民の訴えを神さまに取り次ぎます。すると、荒野の民に、神さまは、神さまからの食べ物としてマンナという食べ物を与えるのです。このマンナが天からふってきた神さまからの食べ物、天からのパンだったのです。
出エジプト記16章、マンナをふらせて、神さまは、みずからイスラエルの民を養いました。マンナが天からのパン、神のパン、イスラエルを生かした命のパンだったのです。
神さまは、単に、イスラエルを肉体的に養うために、また精神的に支えるためにマンナを与えたのではありません。モーセが、民にこう語っている箇所があります。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマンナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
飢えと苦しみも、そのマンナの奇跡も、人はパンだけで生きるのではないことを、あなたがたに知らせるためであったというのです。つまり、人が本当に生きるということは、単に、食べ物によって、食べ物のために、食べるために生きるのではないということです。人は神さまの言葉によって生きるのです。パンはそのことを知らせるためのしるしであったというのです。
今日の主題ですが、主イエスは命のパンです。主イエスが、永遠の命に至るパン、神さまと共に生きる命の、霊的なパン、糧なのです。
主イエスは、わたしたちの肉体的な養いのためのパンではなく、精神的なパンでもなく、命のパンなのです。
命のパンというのは日常にはない言葉です。世の中、肉の。体のためのパンも必要と、心のパンも必要と、飢えています。それ以上に必要なのが、命というようにいわれているのです。わたしたちは、実は、命のパン、神さまのパンに飢えているのではないでしょうか。御言葉が必要とされています。礼拝が求められているのです。
この世界は苦しんでいます。解決の難しい諸問題があると思います。しかし、人が本当に苦しんでいるのは、根源的な命の問題です。すなわち、聖書が命の問題というとき、それも神さまとのつながりにかかわる問題、命の問題、命のパンの問題があるのです。
そして、この命の問題は、罪の問題、その赦しの問題と深いかかわりあると思うのです。聖書は、主イエスをキリストと告白しています。新約聖書の問題意識は、罪の問題だと思います。
ある人の言葉です。「人間には必ず生命の終焉が訪れるが、生命は無限のような気がする。その死に際し三つの和解ができていない人は大変な苦しみの表情の中死んでゆく。もしも和解の必要があると思うなら、もしも苦しみたくないなら、いまから和解の準備をしておきなさい。それは自分自身のためだけでなく、次世代のために、であると。三つの和解とは、第一に自分との和解、第二は家族を含む大切な人との和解、そして第三が神との和解である。」と。
人の死は、単に肉体的なことではなく、社会的、宗教的、霊的で、全人格的な出来事なのです。霊的痛みは身体的痛みの何十倍もはげしいようにみえるといいます。
先の文章ですが、3つの和解ができないと、人は平安に死ねないというのです。いつもなにかを恐れていることになると、霊的な飢えが人にはあるというのです。
肉体の飢え、精神の飢え、霊的な飢え、3つが満たされる必要があります。3つの和解が必要なのです。
主イエスが命のパンです。神さまからのパン、天からのパン、命のパンです。主イエスを信じて、パンをいただいて生きるのが人です。
いちばん難しい神さまとの和解ができている人が、いちばん心配のいらない人です。自分が何をしたらいいか。信じて生きることがわかっている人が心配はいらない人です。
命のパンである主イエス・キリスト、天からくだってきた神の子が、わたしたちのいちばん解決の難しい罪の和解を、主イエスが十字架につかれることで和解が完成しました。復活の命に、死から引き上げられることで、信じる者すべてが神さまとの命に生きることが明らかにされたのです。
わたしたちはなにをしたらいいでしょうか。神さまがお遣わしになった者、主イエスを信じることです。あるがままの人生を、主イエスによって生かされる、御言葉によって生かされるということだと思います。
主イエスは命のパンというお話です。