2020年10月18日(日)聖霊降臨節第21主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書12章1~8節

「ベタニアで香油を注がれる」

12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。

12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。

12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

ベタニアに、マルタ、マリアの姉妹がいました。ルカによる福音書10章です。主イエスの一行の接待、給仕に忙しい姉のマルタ、一方、主イエスのひざもとに座り入り、御言葉に聞き入っている妹のマリアが、対照的に、ユーモラスに描かれています。

そのベタニアのマルタ、マリアの家が今日の舞台です。夕食が用意され、マルタは忙しそうに給仕をしています。それに、姉妹の弟のラザロが、直前の11章で、死者の中からよみがえらされたラザロも、主イエスと一緒に食事の席についていました。

そこで事件が起きたのです。マリアが、そこに高価なナルドの香油を持ってきて入り、主イエスの足にぬるのです。

1リトラは、容量の単位ではなく重さの単位です。約300グラムです。

おそらくは結婚のために、またもてなしのために用意されていた高価なナルドの香油です。しかし、マリアは自分のために香油を使ったのではなく、主イエスの足にぬったのです。

マリアの行為は、ひとつの考え方は、マリアの、主イエスへのあふれるばかりの感謝のあらわれであったのかもしれません。常日頃、主イエスのお言葉に生きてきた感謝のあらわれであったのかもしれません。

けれども、マリアの行為に、ユダが、なぜ貧しい人に施さなかったと言うと、主イエスは、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と言いました。

マリアが、主イエスに香油を注いだのは、結婚の準備でも、もてなしでもなく、主イエスの葬りの用意のためだったというのです。

過越祭の6日前のことです。すなわち、主イエスが 十字架にかかる6日前、すでに、ユダヤ人たちは主イエスを殺そうと考え、緊迫した状況にありました。マリアの香油注ぎは、主イエスの葬り、十字架の死のためであったというのです。

マリアは、主イエスの死を、それがどういう姿であったかはともかく、予感していたのかもしれません。ある人が、人は自分の愛する人のことについては、敏感に感じるもの、隠しても、その人の心がわかると言いました。運命についても、何かを感じとるものだというのです。

弟子たちは、何度となく、十字架の死を、主イエスは話したにもかかわらず本気にしませんでした。マリアは、祭司長たちがますます主イエスを殺そうとしていたという、そういう状況を、主イエスの運命を、感じ取っていたのです。

いずれにしても、主イエスは、マリアの行為を、「わたしの葬りの日のため」であったと言いました。「葬りの日のため」であったとは、どういう意味であったでしょうか。

主イエスの十字架を、マリアは予感していたと言いましたが、主イエスの葬りのために香油が必要であったのでしょうか。

主イエスのご遺体は、十字架に死なれた体には、香油、香料がぬられ、丁寧に墓に埋葬されました。マリアの香油は無駄になったではないでしょうか。

イースターの朝、数名の婦人たちが、もっと丁寧な埋葬をしたいと、安息日があけた日曜の早朝、香料を買い求め、たずさえて墓に急ぎます。しかし、その香料は使われることはありませんでした。墓には、主イエスの お体はなかったからです。 ここでは、婦人たちの用意した香油は無駄であったのです。

ある聖書の研究者は、ここの箇所を、「マリアは主イエスを王として、主として仰いでいる」と言いました。主に油を注いだのだと説明するのです。香油は、化粧品であり、もてなしのためであり、また葬りのためでした。しかし、もうひとつの使い方がありました。油注ぎは、礼拝で、神さまを礼拝するときに使われました。また祭司、王、預言者が立てられるとき、その任職のしるしとして、神さまのつとめを担う人に、そのときに油を注いだのです。

 この油注がれた者をメシアと、救主と、その後用いられる言葉になりました。

ある研究者の言葉を紹介しました。この箇所を、主イエスは、油注ぎを、ひとりの女性、マリアから受けたと意味したのです。ひとりの女性が、この方が十字架に死なれるメシア、油注がれた者、王であり、わたしたちの救主としたのです。

葬りのためという本当の意味は、メシア、救主への油注ぎであったということです。

マリアは、自分の持っているもの全てを差し出して、主を主として仰ぎました。主イエスが、わたしたちのために葬られた、ご自分の体を差し出した、その方を、わたしたちは、メシア、油注がれた者、救主として仰ぐのです。

聖書は、弟子の一人、後で主イエスをうらぎることになるイスカリオテのユダの言葉を書き留めています。「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」高価な香油を惜しげもなく主イエスの足に注いだマリアの行為を、驚き驚くだけではなくて、憤慨しているのです。

しかし、それは本心からではありませんでした。彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからであると説明されます。

こういう意見は、当然と言えば当然ですが、本当でしょうか。聖書は、貧しい人々への配慮をすすめていますが、また違う次元のことではないでしょういか。

主イエスはユダに、また憤慨する人に、「貧しい人々はいつもあなたあがたと一緒にいる。」と言いました。主イエスへの信仰のささげものと、貧しい人々への配慮が比較されるのではないのです。どちらか一方ではないというのです。

主のお言葉は、旧約聖書、申命記15章11節に、「それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」に基づきました。マリアの振る舞いを喜ばれた主イエスは、まるで、大きく手を開く心を、マリアの中に見ておられたに違いないのです。

主イエスへの信仰と、貧しい人々への配慮を比較したり、対立的に見るのではありません。

イスカリオテのユダは、これは相入れないことと感じ取っていました。

ヨハネによる福音書をあらわした教会は、教会がユダヤ教のコミュニティーから追い出されてしまう時代に編纂されたものといわれます。主イエスを神の子、救い主と告白するが故に、ユダヤ人社会から追放されたのです。

今まで身をおいていた共同体から離されてしまった、生活上の困難を負ったであろうことは大いに想像されます。使徒言行録に見られるように、自分の物を出し合って生活を支え合った、エルサレム教会のような姿がそこにありました。

「貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいる」という主イエスのお言葉は、当時、信仰の故に負うことになる教会自身の姿を指していたのです。そこでは生活上の利益を選ぶか、信仰の故に貧しさに甘んじるかという葛藤と戦いが、教会の人たちの誰にでもあったに違いありません。キリストを告白して教会に留まるということは、困難と貧しさを覚悟しなければならなかったのです。

イスカリオテのユダは、「金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」という、その同じ姿が、ヨハネ福音書の教会の中にもありました。貧しさに耐えかねて、教会を離れて、ユダヤ教のコミュニティーの中に逃れていく人も、イスカリオテのユダに連なるのです。

しかし、聖書はこのユダを、いたずらに非難しているのではありません。主イエスは、このユダの内面をよくご存知の上で、彼の言葉を受けて「マリアのするままにさせておきなさい」と言われたのでした。

主の死を覚えて、十字架の死を覚えて、この方こそメシア、まことの王、救主と主を仰いだのです。ここに、ユダに対する主イエスの深い眼差しを読み取ります。主イエスは、ユダのためにも、ご自身を、そのすべてを指し出してくださったのではないでしょうか。

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