2020年12月20日(日)降誕前第1主日・待降節第4主日 クリスマス特別礼拝 宣教要旨

マタイによる福音書1章18~25節

「神は我々と共におられる」

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

メソジスト教会の祖、ジョン・ウェスレーの生涯の言葉は、「ザ ベスト オブ オール ゴッズ ウィズ アース」、すべての中でベスト、もっとも良きことは、神さまが共にいてくださることです。それは、また、わたしたちの生涯の言葉でもあります。

マタイによる福音書によりますと、マリアの婚約者、夫ヨセフに、夢に主の天使が現れて、主イエスの誕生を告げます。

このイエスという名は、旧約聖書のヨシュア、主は救いという意味の名でした。

そして、この名は、見よ、おとめがみごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられるという意味であると書いてあります。

イエスという名の方のお誕生、それは、インマヌエル、神さまが共にいてくださるという預言の実現だというのです。

わたしたちの人生で、もっとも良きことは、神さまが共にいてくださることです。

神さまは、ご自分の独り子をこの世に、わたしたちに遣わしてくださって、いつも一緒にいてくださいます。

クリスマスこそ、インマヌエル、神は我々と共におられるという御言葉の実現、御心の成就、到達だったのです。

婚約中のマリアに子が生まれることは、夫ヨセフにとっては、深い、闇の出来事であったでありましょう。それが、不義の子というように思われたのかもしれません。

婚約中は、ユダヤの法律では、結婚状態と同等の意味の期間でありましたので、聖書でも、夫ヨセフ、妻マリアと言われているのです。

不義の子が生まれるとするなら、重い罪を問われます。それで、ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。

人の心には闇があります。人間存在の有限性、その存在そのものに、闇があるのだと思います。わたしたちの心には、光のささない部分があるのです。

見通しのきかない、出口のないような闇が、闇があるというだけでなく、闇に覆われてしまうのが、わたしたちの人生です。

ヨセフは、表ざたにしないで、縁をきろうと思っていました。その結果、さらに、どういうことになるのか、先もまた闇であったでありましょう。

そのヨセフに、主の天使が夢であらわれました。ダビデの子ヨセフ、恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は、聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからであるというのです。

イザヤ書7章の預言です。イザヤは言った。「ダビデの家よ、聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」

イザヤ書のインマヌエル預言です。神は我々と共におられるという予言です。

直接には、南ユダ王国は、アハズ王の悪政に民は苦しんでいました。民そのものも、罪を犯し、神ならぬ神を拝み、神さまに背き、神さまから離れ、また、神さまは民を離れたのです。その罪を救う者、神みずから、しるしを与えるというのです。

直接には、次の王になるヒゼキアの誕生を予言したといわれます。

実際、ヒゼキア王は、紀元前8世紀の後半、預言のとおり、民を罪から救う王となりました。29年間、南ユダ王国の王として国を治めたのです。

列王記下の18章に、「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。」と書かれているとおりの王でした。

マタイによる福音書6章に、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」とあるように、ヒゼキア王は、神さまを第一とし、そのことが民を罪から救う者となったのです。

イザヤのインマヌエル預言は、このように、アハズ王の後に、ヒゼキアの誕生を預言したものでしたが、マタイによる福音書は、主イエスの誕生が、ほんとうの意味で、自分の民を、信じる者すべての罪を救う方だと、インマヌエル、神は我々と共におられる方だと、主イエスの誕生こそ、イザヤのインマヌエル預言の実現であると書いたのです。

神さまから離れてしまう罪の実態と、わたしたちを神さまに結びつけてくださる、御子、主イエスの誕生を、コントラストにしるしたのです。

今日はおふたりの洗礼式を行います。洗礼を受けるとは、ある神学者が、キリストが、その人に入られるということですと言いました。その人にキリストが住まわれることだと言われました。

見た目、洗礼を受けたからといって、特別に、立派になるとか、人が変わるということはないと思います。

しかし、違うというのです。キリストがその人におられることになるのです。

十字架に死に、三日目にご復活され、40日の間、ご復活の主は共に地上を歩み、今、天に上り、そして、聖霊をもって、霊によって今生きて、いましたもうキリストが、教会という体をもって、そして、霊の宮であるわたしたちひとりひとりに住まわれるのです。この体がキリストの住まいとなるというのです。

今もキリストは、わたしたちと共に生きておられ、わたしたちを救ってくださり、助けてくださり、慰めてくださっているのです。わたしたちを、いやしてくださっているのです。

わたしたちは、永遠の命にあずかります。永遠の命とは、神さまと、いつも、いつまでも共にいる命のことです。

ガラテヤの信徒への手紙4章に、「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

神は我々と共におられるというイザヤの預言が、約束が実現しました。何百年も前の神さまの約束ですが、今、実現しているのです。

人は約束を忘れます。しかし、神さまは約束を反故になどなさりません。すぐに実現することもありますが、長い時間、何百年も、救主の誕生を、700年という長い年月をかけて、実現なさいました。

このキリストが、教会をかたちづくり、キリストがいつもわたしたちと共にいてくださいます。

神は我々と共におられます。闇を払い、闇にいるからこそ、キリストは来てくださるのだと思います。神さまの方から、御子をお遣わしになり、わたしたちに住んでくださっているのです。

クリスマスをお祝いいたします。

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