2020年6月28日(日)聖霊降臨節第5主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書4章7節~15節

「主イエスとサマリアの女」 大三島義孝牧師

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。

4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

主イエスはユダヤを去り、ふたたびガリラヤに行かれました。途中、サマリアというところを通る近道を主イエスは通られました。普通はサマリアを避け、ペレア地方、ヨルダン川の右側を迂回して、遠回りになる旅をするものです。

サマリアは、ユダヤ人にとっては違う国でした。神さまを信じない人たち、汚れた人たちと見たのです。主イエスとサマリアの女のお話は、こういうユダヤとサマリアの対立と不仲が背景にあります。

そのサマリアのシカルという町に、ヤコブの井戸といわれる古い井戸がありました。そこに、主イエスが、ガリラヤにもどる途中、旅に疲れ、正午頃、井戸のそばに座り込んでいたのです。

サマリアの女は、昼に井戸に水を汲みに来ました。女は主イエスに会いに来たのではなく、井戸に水を汲みに来たのでした。人目を避けていたのでありましょう。女の身分は、人々から軽蔑されていたのかもしれません。朝、あるいは夕に水は汲みに来るが当たり前ですが、女は人が出歩かない昼にやってきたのです。

今日のお話の、主イエスのイメージは、いつもと違います。ひとつは主イエスの人としての姿です。人間として、疲れ果て、渇き、井戸のそばに座っている姿です。人生という旅に疲れてしまった姿です。

ふたつ目は、主イエスの暖かさです。ユダヤ人が軽蔑したサマリアの女に話しかける暖かさがあります。

3つ目に、主イエスはサマリアの女に偏見を持っていなかったことがわかります。

その井戸に、昼頃水を汲みに来たサマリアの女に、主イエスは水を飲ませてくださいと頼みました。サマリアの女は、ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからと言いました。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

11節から、女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

13節から、イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

主イエスは水を汲むものを持たない。井戸は深い。しかしその主イエスが、生ける水を与えてくださる。主イエスも渇いている。渇いているお方が、渇くことのない、ここに水を汲みに来なくてもいい、永遠の命に至る水を与えてくださる。主イエスが渇いてここに座っておられる。そのことが、わたしたちが本当に必要なものを、わたしたちが求めているものであったというお話なのです。

わたしたちは見失っているものがあります。本当に大事な、わたしたちを生かすものが砂漠にあるのです。それを汲む、得る手立てが無いのです。主イエスも知っておられ、体験し、自分も道具が無い。わたしたちも汲み上げる道具が無い。主イエスが知らせ与えてくださいます。そのいただいた水は、渇かない、泉となり、わたしたちの内で永遠の命にいたる水がわきでるというのです。

サマリアの女も渇き、求めていました。女は水を汲む道具を持ち、繰り返し、繰り返し井戸から水を汲み上げ渇きをいやしたことでありましょう。しかしいやされることはありませんでした。

それはどういうことかといいますと、わたしたちの持っている道具、水を汲むもの、わたしたちが求めている渇きそのものが、だいたい見当違いのものなのです。わたしたちは、自分が、何が必要なのかをわかっていないということです。そういう見当違いのものを求め、得る手段を持っていると思っているわたしたちに、主イエスは、わたしも持っていないが、しかし与えることができる。永遠の命に至る水を汲むもの、水を与えることができるというのです。

わたしたちは、思いもよらぬ驚きの水をいただいています。それは主イエス・キリストそのもの、主イエスというお方といってよいと思います。

わたしたちには解決できないことがふたつあります。ひとつは罪です。罪の問題は背きの問題ですが、解決というのは難しいのです。もうひとつは、罪の結果、罪の罰としての死です。死は、この世の知恵では乗り越えることのできないトンネルです。どれだけの財産があっても、名誉があっても、どれほどのわざを積み上げても、死の壁の前には、いっさいはむなしいのです。

しかし、永遠の命に至る水を、わたしたちは主イエス・キリストからいただいています。キリストそのものを、その十字架とご復活の主イエスからいただいて、わたしたちが泉となり、川となります。キリスト教とは、ひとことで言えば、命の水をいただいて、生き生きと生きることだと思うのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加