2021年11月21日(日)降誕前第5主日 謝恩日・収穫感謝日礼拝 宣教要旨

マルコによる福音書4章1~9節

「種を蒔く人のたとえ」

4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。

4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

主イエスの種を蒔く人のたとえ話です。主イエスは、たとえで、しばしば神の国のことを話しました。そばで、種を蒔いている人がいるかのように、種を蒔く人が種を蒔きに行ったと話しました。

4種類の蒔き方、落ち方がありました。

ある種は道端に落ち、鳥がきて食べてしまいました。他の種は石地に落ち、すぐ芽を出しましたが、根が浅いので枯れてしまいました。また他の種は茨の中に落ちましたが、ふさがれて実を結びませんでした。しかし、良い地に落ちた種は、芽生え育ち、30倍、60倍、100倍の豊かな実を結んだというのです。

あとで(13節以下で)、弟子たちが、たとえがわからないというので、主イエスが説明する箇所があります。

たとえは、蒔き方、落ち方ではなく、落ちた地、場所のことだという説明です。

わたしたちの心が、根がないので、また、心が欲でふさがれて、実が結ばないというのです。

このように、たとえの説明では、落ちた場所におきかえられるのです。

今日は、種の落ち方、最初のたとえそのもののところから読みたいと思います。

4種類の御言葉の蒔き方、落ち方があって、4種類の結果があります。30倍、60倍、100倍の実を結ぶというのですので、結び方も3種類あり、合計、6種類の結果があるということです。

当時のイスラエルの種の蒔き方、麦の種撒きの様子です。

日本では、耕してから種を蒔くのですが、イスラエルの、当時の農業は、最初に種を蒔いて、あとで耕したのだそうです。この方が、効率よく、収穫が上がったのだそうです。

4種類、また6種類の結果が出ました。

あぜ道のようなところに落ちた種は、そのままにされ、鳥がついばんでいきました。石地や茨は、耕されず、枯れたり、芽が出ても伸びることができませんでした。

良い地に落ちた種は、蒔いて、耕したという意味でしょう。

神さまの種蒔きは、御言葉の種蒔きです。種蒔く人は神さま、主語は神さまです。

当時のイスラエルの農業は、ずいぶんでたらめで、無造作に、どこにでも種を蒔き、耕されない場所もあったわけで、奇妙に感じるかもしれません。

しかし、神さまは、人や場所をわけへだてなさらず、どこにでも種を蒔き、蒔き続けているのです。

最初に種が蒔かれたところは、ローマ帝国の都ローマではなく、辺境のユダヤの地の都エルサレムでもなく、北辺のガリラヤ湖の、その海辺でした。

種蒔きのたとえ話は、実りのことも大事ですが、種そのもののたとえ話です。

種が蒔かれます。たくさんの種が蒔かれます。どうして、種は、道端や、石地や、茨の中にも蒔かれるのでしょうか。はたして、そういう蒔き方でいいのかと思うのです。

たとえ話には意味があります。こう考えるべきではないでしょうか。

種は、神さまの御言葉です。御言葉の種が蒔かれます。主イエスは、そこには境というものがないとお話になったのではないでしょうか。

道端に落ちた種は鳥がきて食べてしまう。石だらけで、土の少ないところに落ちた種は、すぐに芽を出したが、根がないために枯れてしまった。

そして、茨の中にも種が蒔かれます。茨におおいふさがれて、成長ができないところにも、神さまの御言葉が蒔かれるとお話になったのです。

境目なく、また、わけへだてなく、神さまの御言葉は蒔かれます。農夫は、何も考えていないかのように、気前よく、種はまかれるのです。

ある人のこの箇所の解説です。

み教えが語り始められようとしている。しかし、そこは、ローマ帝国の中心である世界都市ローマでもなく、ユダヤ人の宗教的中心であるエルサレムでもなく、ガリラヤの北部の小さな湖の岸辺、世界の辺境、まさに片隅で始まる。

片隅で、神の国の訪れが告げ知らされた。片隅で始まったということは、いたるところに宣べ伝えられるということにほかなりません。

それは場所的なことだけではありません。思い出していただきたいのですが、マルコによる福音書は、主イエスは一介の漁師たちを弟子として、これを重んじ、また、罪人と呼ばれている人々、神さまから遠く離れていると見なされていた人々に近づき、福音を伝え、徴税人をも弟子としてお召しになりました。

安息日には常識を破って、助けを必要とする人をお癒しになりました。それですから、律法学者やファリサイ派の人々は、ヘロデ党の人たちまでこぞって、主イエスを非難し、はては主イエスを殺そうと諮りはじめたと書かれていました。

この人たちは、神の言葉は清い清潔な者たちの中に保たれていなければならないと堅く信じる人々でした。境界線をさだめ、境を意識していました。

しかし、主イエスはこの種蒔きのたとえで、神の言葉は分け隔てなく蒔かれるのだということをお教えになるのです。

ことに、種にとって過酷な場所、困難の大きなところにまで蒔かれていることを告げています。

そして、その困難がはるかに大きなことだからでしょうか、種を蒔く人、農夫は、それに対して手の打ちようがないのです。ただ種を蒔くだけです。蒔かれる種に信頼して、ただ信頼して、忠実に、わけへだてなく、どこにでも種を蒔くのです。

パレスチナはご存知のように、雨の少ない所です。ほとんどの場所は、荒れ野であったと言われています。そこに植物が育つというのは大変なことで、水分を取るために、地中深く根をはらなければならないのだそうです。

ですから、石地や、茨の少しでも生えているところでさえ、種にとっては致命傷で、そこでは育つことができないのだそうです。

困難の大きなところ、過酷な場所にまで、種は蒔かれていると主イエスは言われたのです。

このたとえ話を、わたしたちも、自分自身の仕事、自分たちはどういう土地であろうかと読むのですが、伝道は、御言葉の種撒きは、失敗と成功、両方を見せてくれるのです。

それでも、御言葉の実るときが来るという希望があるのです。

困難の大きなところとはどこでしょうか。罪人と呼ばれる人々のところでしょうか。そこも確かに荒れ地です。

しかし、主イエスを殺そうと諮るような人々、その心こそ、もっとも大きな困難な場所だったのではないでしょうか。

聞く耳をまったく持たない者、拒絶し、主イエスを葬り去ろうとする人間の世界や心にまで種は蒔かれたのです。

そして、人の目から見れば、神の国は覆い尽くされ、隠され、やっつけられてしまっているように見えるのです。

しかし、主イエスは、この困難な種蒔きは、決して失望に終わることはない。種は力を発揮して、予想をはるかに越えた収穫をもたらすことを告げておられます。

御言葉は良い地に落ち、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結ぶと、そう主イエスはお語りになりました。

この種蒔きの譬えの前半の部分について、ある人がこれは「励ましの譬えである」と言いました。

種撒きのたとえとは励ましのたとえです。神さまの言葉に仕える者たち、神さまの言葉を聞いて生きることを教えられた者たちに対する励まし、勇気を与えるたとえなのです。

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