マタイによる福音書6章5~8節
「祈るときには」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
祈りを、隠れたことを見ておられるわたしの父に見せなさいという主イエスの教えです。
祈ることは、信仰の基本であり、宗教の基本であり、宗教そのものでありましょう。
神さまについて、どれほどの知識があっても、救いについて、たくさんのことを知っていても、それがそのまま、信仰にはならないものです。
信仰になるのは、祈りです。知識を脱皮して祈るときこそ、信仰が信仰になるのでありましょう。生きる神さまとの交わりが、祈りにあるからです。
旧約聖書にサムエルという預言者がでてきます。神さまに選ばれ、召され、王を立てるために、油を注ぐという任務を与えられた人です。
その少年時代、サムエルは、シロという町の祭司エリという人のところにあずけられます。
ある夜、神殿で寝ているときに、サムエルよという声がありました。サムエルは、ここにおりますと言うと、祭司エリが自分を呼んだのだと思い、お呼びになりましたので参りましたと言うと、エリは、わたしは呼んでない、戻っておやすみと言いました。
不思議に思いつつ、伏していると、また、サムエルよという声がするのです。また、サムエルは、エリが自分を呼んだのではと思い、お呼びになりましたので参りましたと言うと、エリは、わたしは呼んでない、戻っておやすみと言いました。
その夜、そういう声がした三度目に、祭司エリは、サムエルを呼んだのは神さまだと気づくのです。
サムエルに、それは神さまの声だとさとすと、サムエルは、主よ、お話ください、僕は聞いておりますと言いました。
そして、四度目に、サムエルよという神さまの声に、サムエルは、どうぞお話ください、僕は聞いておりますと、サムエルは、神さまの声に、その召しに応えるのです。
祈りは、わたしたちが祈るのですが、神さまが、わたしたちに語ることを、忘れてはいけないのだと思います。
フォーサイスという人に、祈りの精神という本があります。
その最初に、祈らないことは罪であるとあります。最悪、最大の罪は、祈らないことであるというのです。
人は、祈ることに無頓着になります。祈る気にならないことがあります。
しかし、人間、信仰があっても、するはずのない罪を犯すものです。最大の理由が、その人が祈らないからだというのです。あらゆる罪の奥深くに、祈らないという現実があるのではないでしょうか。祈ろうとしない罪があるのです。
サムエルの話は、祈りは、神さまからの呼びかけへの応答であるという例です。
最後まで残るわたしたちの仕事は、祈りだと言われます。また、祈れなくとも、神さまの祈りの呼びかけがあるのではないでしょうか。
詩編27編4節に、ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ、望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを、という祈りがあります。
信仰生活、教会生活の基本は、祈りであるであると言ってもよいでしょう。
その祈りについて、主イエスが教えられた個所です。
祈らないことは罪でありますが、逆に、熱心に祈るかのような人のことを、よく祈る人の罪というのです。
偽善者のようにではなくと、言われました。
「偽善者」という言葉は、装う、演じる、役者、俳優という言葉です。
人は、自分を装ってしか生きていくことが出来ないのです。
主イエスは、偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがると言いました。会堂や大通りの角とは、人のたくさん集まるところで祈りたがるということです。
人に見せるためです。役者は観客がいないとなりたたないのです。見てくれる人がいないとなりたたないのです。
もうひとつの言葉は、異邦人のようにという言葉です。異邦人という言葉は、ユダヤ人以外という言葉です。
神さまを知らない人という意味です。神さまから知られてない人という意味にもなります。
神さまがわからなくなっている異邦人は、くどくどと述べます。言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいるのです。
くどくどと述べるというのは、どもるという言葉です。異邦人の祈りは、呪文のようなわけのわからない言葉を繰り返し、多くの神々の名前を羅列して祈ったのです。呪文を唱え、あるいは神々の名を呼ぶことで、神々を動かして自分の願いをかなえてもらうというように祈ったのです。
つまり、祈りを、神さまを自分のために動かす手段としたのです。神さまを動かそうとする祈りは、どうしてもくどくどと言葉数多くなったのでありましょう。
自分の願いが、一度祈っただけで聞き入れてもらえるとは思えないので、二度三度、繰り返してお願いしなければ聞いていただけないと思ったのです。
主イエスは、このように、偽善者のように祈るな、異邦人のように祈るなと言われました。
そして、祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいと言われました。
納屋、物置のような、真っ暗な部屋のことです。
さらに、あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだと言われました。
天の父は、奥まった、隠れたところにおられ、あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じであります。
わたしたちに、神さまの配慮があるのです。
ある人の言葉です。神さまは近くにおられる。わたしが近いより、神さまは近くにおられる。わたしが愛するより、神さまはわたしたちをもっと愛しておられる。
お読みしませんでしたが、そこで主イエスは、主の祈りを教えてくださいました。
わたしたちは、なかなか祈れないのです。しかし、主の祈りなら祈ることができます。主の祈りから祈りが導かれ、祈りは主の祈りにまたわたしたちを導くのです。
主の祈りは、誰もが親しみ、そらんじる祈りです。ところが、教会の歴史の中では、主の祈りは奥義として伝えられてきたという側面があります。
なぜかというと、だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださるからなのです。
奥まった部屋で、隠れたことを見ておられるあなたの父にとあるように、隠れて、奥義のように、奥まったところで祈られてきたからなのです。
主の祈りは、奥まったところにある祈りであったのです。
まことに主イエスは、祈りの人でありました。隠れたところにおられる父に、祈ってくださったのです。
御臨在の主イエスが、祈ってくださっています。
天の父は奥まった、隠れたところにおられ、あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じであります。
主イエスが、わたしたちと父なる神さまとをつなぎます。わたしたちの必要を、祈りをご存知なのです。
偽善者のようによこしまな自分をかくさず、異邦人のようにくどくどと祈るのではなく、必要をご存知である、主イエスが間におられます。十字架と復活の主イエスが、赦しと命の主イエスがおられます。
願う前に、与え、備えてくださる神さまの祈りがどこにもある、祈ってくださっている祈りの生活があるのだと思うのです。