マタイによる福音書7章1~6節
「人を裁いてはならない」
7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からオガ屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からオガ屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
「裁く」という言葉は、分ける、区別し見分ける、識別し選び出すという意味の言葉です。
良いことと悪いこととを識別する、ある物の価値を見分ける、それが相応しいことかどうかを判断する、その人にとって何が最善であるかを見極める、そのような良し悪しを判断することです。
すなわち、「裁く」という意味になるわけです。
人を裁くことは、わたしたちの生活では、日常茶飯事です。裁きあいの毎日ではないでしょうか。
家の中でも、職場でも、学校でも、教会でも、社会や世界でも、口に出さなくても、人は、裁きあいの毎日なのです。
ところで、主イエスは、一切裁いてはならないと言ったのではありません。
同じ7章の、主イエスの言葉です。
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
律法学者やファリサイ派の人々に、あなたたち偽善者は不幸だ。ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちていると言いました。
主イエスは、「上辺だけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と言ったのです。正しく人を裁く必要があるのです。
7章1節、人を裁くなは、人を裁き続けるなというニュアンスがあります。裁き癖に、習性にならないようにということでしょう。
人は、人の荒さがしを、人を非難するのが常だからです。
そして、主イエスが問題にしたのは、人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためであるというのです。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられるというのです。
裁けば裁かれます。裁きは、自分に返ってきます。人を批判すれば、自分にその批判ははね返ってくるのです。
あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、あなたの目からおがくずを取らせてくださいと、どうして言えようか。自分の目には丸太があるではないかと言うのです。
そのように、人は、裁きあっていると言うのです。
5節、偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。
偽善者よと、主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々の罪をあげます。彼らの自己義認、自分は正しいという罪をあげるのです。
ルカによる福音書18章、神さま、わたしは他の人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。
彼らの優越感、人を見下す態度があるというのです。
人は、人の小さな欠点には目が行き、自分のおおきな欠点には気がつかないのです。
主イエスのたとえ話に、自分の仲間を赦すことができなかった家来の話というのがあります。
マタイによる福音書18章です。王さまに自分の負債を免除してもらったのに、自分の仲間を赦すことができなかった家来の話です。
1万タラントンという、想像を絶する金額、人が一生働いても稼ぐことができないような金額を、王さまに借金していた家来がいました。ところが決済の時がきて、家来は王さまの前に連れてこられます。しかし返済できるはずもありません。
自分も妻も子どもも、また持ち物も全部売って返済にあてるようにと王さまは命じます。
家来は、どうか待ってください、きっと全部お返ししますからとしきりに願いました。すると、その家来を王さまは哀れに思って、赦し、その借金を帳消しにしてやったというのです。
ところがこの家来は外に出て、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、その仲間は返すことができません。
それでひれ伏して、どうか待ってくれとしきりに頼みます。しかし王さまの家来は承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまで牢に入れたのです。
そのことが王さまの耳に入ると、王さまは非常に怒って、この家来をこんどは牢に入れたのでした。
その時、王さまはこう言いました。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
自分の仲間を赦すことができなかった家来の話です。
人が互いにもっている負債、重荷、過ちというのがあります。その背後にもっと大きな問題があるというのです。わたしたちは、神さまに対する負債があって、それは自分でとうてい精算することができるようなものではない。しかし神さまは、その負債を赦してくださったというのです。
不可解なほど深刻な人間の弱さ、難しさをわたしたちは抱えています。
しかし、神さまは大いなる赦しのもとに、わたしたちを生かしていてくださるのではないでしょうか。それだから、互いの負債を赦しあうことができるのだし、そのようにしなければならないのだということを教えているのです。
この1万タラントンの負債と同じように、主イエスの教えは、丸太の比喩で、人間の罪のことを指しているのです。
丸太を取り除けと主イエスは言われます。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおがくずを取り除くことができるというのです。
裁きのことが問題なのですが、兄弟の欠点を正しく見極め、それを正すことが課題となっています。しかし、それは赦しの問題であります。赦しの問題は、同時に裁きの問題でもあります。そして、正しく裁くことができなければ、真実に赦すこともできないのです。
わたしたちは、自分の丸太を正しく知ることなど、ましてやそれを取り除くことなどできるはずがありません。それがあたかもできるかのように思い、自分は見えると言い張るなら、それこそ偽善者だと言われるのではないでしょうか。
そうだとすれば、ここで主イエスが言っておられることは、取り除くことができない丸太を、神さまが赦していてくださる、やはり大いなる赦しがあるということだと思います。
わたくしたちを正しくお裁きになる方が、同時に、赦しを与えていてくださったのです。
最後の6節です。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
良く知られる言葉です。この言葉自体はよく知られていますが、この言葉が何を言おうとしているのか知らないのではないでしょうか。
豚に真珠とは、何を意味しているのか、いささか分かりにくいのですが、はっきりしていることは、裁くなと言われた主イエスの言葉を、なおいっそう味わい深いものとするために、その主イエスの言葉に、もっとわたしたちがちゃんと結ばれるためにお語りくださった言葉だということです。
それは、わたしたちが神さまの赦しのもとにあって、互いに戒めあい、赦しあうということがなされているのかという問いです。
神さまの赦しという宝のような恵みが、それを少しも理解する事ができない、犬や豚に投げ与えられて、踏みにじられ、かみつかれることになってしまうということです。