マタイによる福音書9章35~38節
「群衆に同情する」
9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
わたしたちの主イエス・キリストは、ガリラヤの町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやしてくださいました。
今も、生きてご臨在される霊的キリストが、わたしたちを教え、福音を聞かせてくださり、あなたの罪は赦されたと、復活の命に生きるように宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患い、悩みを、いやしてくださっているのではないでしょうか。
メソジスト教会の祖、ジョン・ウェスレーは、生涯、4万回の説教をしたと言われます。50年間に、4万回話したというのです。一年に1000回以上、一日に何度も、いろいろなところで、話しました。
その歩いた距離は、32万キロです。地球、8周りになります。
主イエスも、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされました。
ユダヤでは、医者になるのが難しかったと言われます。
それは、医者は、汚れた病人や死体に触れることになるからでした。触れてはいけないという律法があって、医者になるのが難しかったというのです。医者は、汚れかかわるというので、医者という仕事が、汚れた仕事と言う人がいたそうです。
そのいやしのつとめを、主イエスは、町や村を残らず回って、触れて、病気の人や患った人たちをいやされたのです。
キリストが、わたしたちの家を、一軒一軒を回っておられ、いやし、慰めてくださっているのではないでしょうか。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
わたしたちは皆、弱い羊、迷いさまよっている飼い主のいない羊です。わたしたちの飼い主はいないのでしょうか。
しかし、主は羊飼いです。
主イエスのたとえ話です。
そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
主イエスは、わたしたちが弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました。
「深く憐れむ」というのは、主イエスが群集を同情したということです。
ある聖書の翻訳では、はらわた痛むと翻訳されています。はらわたが痛むようなという表現は、腹が苦しいほど痛いという同情の表現です。
マタイによる福音書の、35節から38節は、構造的に、マタイのまとめの句になります。いままでのまとめであり、次の説教への橋渡しになる個所です。
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
ルカによる福音書では、その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
すなわち、主イエスは、わたしたちの病気や患いをいやして、深くあわれんでくださり、必要な食べ物、糧を与えてくださり、さらに遣わしてくださるのです。
誰もが遣わされるのではありません。働き手を送ってくださるように祈り願いなさいというのです。
主の祈りです。
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
われらの日用の糧を今日もお与えください。そして、働き手を送ってくださいと祈るのです。
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
主イエスは、今は収穫の時と言います。
収穫期には働き手が必要です。
ただ、働き手が少ないので、収穫の主に願いなさいというのです。
ガリラヤの町や村、わたしたちの世界は、実り豊かな収穫の世界に見えたのでしょうか。
そうでなかったのです。病気や患い、飼い主のいない羊のように弱り果てた、打ちひしがれた世界でありました。
人は孤独なのです。
孤独とは、自己の周囲に人がいないために生じるのではなく、自己にとって重要に思えることを、他に伝えられないことや、自分が他人の許容しがたい何らかの観点を持つことにより生じるものなのです。
人間は、自分自身に対しては謎です。
何かが伝わらないのです。
また、自分で受け付けない壁を作っているのです。
人は、荒れ地なのです。
しかし、今は、実り豊かな収穫の時です。働き手が少ないので、働き手を送ってくださいと祈るのです。
働き手が回ってくださるので、人と人とがわかりあえるのではないでしょうか。
今は、霊的な収穫の時です。御国が、それらしい装いを見せていないのかもしれません。自分の罪や、人生の矛盾が、自分のむなしさ、無力だけが見えるかもしれません。
しかし、今が、霊的な収穫の時期です。主イエスが、群集に同情してくださいます。
わたしたちの人生は、主イエス・キリストと共なる人生なのではないでしょうか。