2020年9月27日(日)聖霊降臨節第18主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書10章7~18節

「主イエスは良い羊飼い」

10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。

10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。

――10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。

10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。

10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

詩編23編に、招きの言葉があります。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

わたしたちは皆、弱い羊です。何かにいつも追い立てられています。本当に、神さまの導きに信頼しているのでしょうか。自分の内からも、外からも、命がおびやかされているような、不安な弱い羊です。

今日の言葉は、わたしは良い羊飼いであるという主イエスのお言葉です。

また、わたしは羊の門であると言われました。主イエスを通してだけ、羊であるわたしたちは救われます。わたしは良い羊飼いである。主イエスはまことの羊飼いです。羊のために命を捨てる、まことの羊飼いです。

わたしたち羊は、この囲いのうちに守られ、休みます。

16節に囲いという言葉があります。読みませんでしたが、10章の1節、わたしは門である、主イエスという門を通って、羊は囲いに出入りするのです。囲いというと、何か木の柵で囲まれたぐらいの、簡単な囲いを思い浮かべます。しかし、囲いという言葉は、中庭という言葉と同じ言葉です。

たとえば、ヨハネによる福音書18章、主イエスが裁判にかけられた場所、大祭司カイアファの中庭という言葉がでてきます。この中庭と、10章の囲いという言葉が同じなのです。

さらに、囲いという言葉は、屋敷とか邸宅という言葉にもなって使われます。

つまり、主イエスが羊の囲いと言われるのは、しっかりとした大きな建物、城壁のような囲いがあり、夜、羊は囲いに入れられて寝るのです。動物が抜けられるようなものではありません。木の柵で、ひょいと乗り越えられるような、そういうイメージの場所ではありません。大祭司の屋敷のように、城壁のように囲われた、安全な、厳重な囲いの場所ということです。

すなわち、教会が囲いです。キリストの体である教会が、わたしたちには、キリストが門であって、囲いであって、しっかりと守られているのです。

夕方、羊は羊舎に戻りますが、羊飼いは先のまがったさおと杖で入口に十文字をつくり、一匹ずつそこを通し、すばやく羊のコンディションを調べました。

 羊飼いは、羊を生かすため、羊と生きるために過ごします。羊飼いは命がけで、羊を連れ、草を食べさせ、また戻ってきます。

99匹を置いて、迷った1匹の羊を探す主イエスのたとえがありますが、1匹の羊が大事なのです。羊を飼うことが、生きるということなのでしょう。

 羊は、最古の人間が飼うようになった動物のひとつと言われます。羊は弱い動物で、人間が飼うようにならなかったら、野生のままであったら、おそらく絶滅していた動物と言われます。

狼に襲われたり、とにかく弱い、しかしわがままな、自分勝手な行動を取る動物と言われます。

それを、羊飼いは、狼から守ったり、朝、えさを食べに連れて行ったり、水を飲ましたりするのです。朝から夜に、羊飼いは羊の世話をします。羊泥棒など、あらゆる敵から羊を守るのです。

主イエスは良い羊飼いです。主イエスはご自分のことを羊飼いにたとえました。羊を飼って生きるあらゆることを、あらゆるシーンをご自分にたとえられたのです。

わたしは羊の門である。羊を、盗人や強盗から守るという意味の門のことです。主イエスは、羊を滅ぼすのではなく、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために、羊の門となってくださいました。

そして、わたしは良い羊飼いであると、11節、14節と繰り返します。そして、良い羊飼いは、羊のために命を捨てると言われたのです。

この囲いに、声によって、わたしたちも、教会に入っていない羊も、導かれるのです。

羊飼いもわたしたちの声を知り、私たちも主イエスの声を知っています。羊は危険にさらされています。崖の上の狭い高台と岩のごつごつとした砂漠です。野生の動物や羊泥棒をはたらく強盗など、羊飼いは絶えず警戒し、不屈の勇気と忍耐強い愛によって羊の群れを守ります。

羊飼いは羊に対して徹頭徹尾責任がありました。万一羊に何かかが起こると、それが自分の過失からではないことを、何らかの仕方で証明しなければならなかったほどです。時には羊の群れを守るために、羊飼いが命を失うこともあったといいます。

旧約聖書では、羊飼いと羊を神とその民とにたとえています。「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、その御手の羊である。」(詩篇95篇7節)

また、国の指導者、油注がれて神に立てられた王もまた羊飼い(牧者)と呼ばれました。(エレミヤ書23章1~4節など)

ですから、来るべきメシア(キリスト=油注がれた者)も「良い羊飼い」のイメージを伴っています。

わたしは良い羊飼である。主イエスはご自身を、神から遣わされたメシアであることを明言されました。まず、「羊の門」であると言って、羊飼が朝、正規の入口である門を通って羊舎に入り、羊を牧場に連れて行くように、主イエスこそ世に来て、救いの語りかけをなし、人々に信仰を呼びかけ、その民を命へと導くのだと語ります。

なぜ、主イエスが「羊の門」であるのでしょうか。それは「良い羊飼い」だからです。

「良い羊飼」のしるしは、一つは羊を知っているということです。主イエスはその民を知り、民は主イエスを知ります。それゆえ、主イエスのおるところに民もおることになります。そして、主イエスと民との関係は父と子との関係に比べられます。すなわち、父なる神と子なるキリストとの交わりの中に、その民を結ぶのです。

第二のしるしは、決定的なしるしですが、羊のために命を捨てるということです。主イエスが民を知り、民もまた主イエスを知るようになるために、主イエスは十字架にご自分を引き渡します。それは、主イエスに属する人々のための犠牲の死、贖罪の死です。

「父は、わたしが自分のいのちを捨てるから、わたしを愛してくださるのである。」(17節)という言葉は、ローマの信徒への手紙3章15節以下の、パウロ言葉を思い起こさせます。

「こうして、神みずからが義となり、イエスを信じる者を義とされるのである。」

主イエスはその死をとおして、救いのみ業をなしとげてくださったので、「良い羊飼い」と呼ばれるのです。

羊のためにという言葉がでてきます。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。

わたしたちのために、主イエスは十字架についてくださいました。責任をもたないような、雇い人の羊飼いのようにではなく、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げるような羊飼いではなく、自分の羊のために、命をかけて、自分の命を捨てて、守ってくださった羊飼い、主イエスです。

主イエスは羊のために命を捨てられました。十字架の犠牲、それは羊のためでした。その命を、主イエスは再び受けることができると言われました。復活の命ということでありましょう。

 ある人が、このことを、主イエスのご復活の事実にもとづいて、わたしたちもこの復活の命に生きます。復活の命は、自分の心臓の鼓動とは違う別の命と説明しました。

 別の命とは、神さまと共にいるような命のことです。それは人のために命を捨てることができるような命だというのです。

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