2022年7月17日(日)聖霊降臨節第7主日 宣教要旨

マルコによる福音書8章14~21節

「ヘロデのパン種」

8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。

8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。

8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

マルコによる福音書6章と8章です。五千人の給食、また、四千人の給食という奇跡がでてきます。男子だけでも五千人、また、四千人が満腹し、余りのパンを集めると、十二籠、また、七籠になったという話です。

五千人の給食がユダヤ人に、四千人の給食が異邦人に、余りの籠が十二籠と七籠というのは、そういう意味と言われます。

神さまの恵み、食べ物がすべての人に配られているのです。

日毎の糧を今日も与えてくださいと主の祈りに祈ります。神さまはわたしたちの必要を満たしてくださるのです。

パンの恵みは、現実の恵みであるとともに、この給食の恵みは、神の国の先取りです。

全てにおいて全てを満たしている方、主イエス・キリストが満ちておられる場では、わたしたちは有り余る恵みをいただいているという、奇跡の物語なのです。

わたしたちは、御言葉の糧を有り余るほどいただいています。

雨が降ります。雨が降って川になります。

また、ほとんどの水は地下にしみていきます。そのしみこんだ水は、地下水は、帯水層という地下の川をつくります。

そこから、水は伏流水となり、泉となり、また、井戸を掘って、わたしたちはいつも尽きない水をいただいて生きるのです。

御言葉の雨が、洪水となって溢れ、また、地下から、木が根から水を吸い上げ、葉が茂り、花がさき、実が実るのです。

御言葉に、溢れるほどの、有り余るほどの、汲めども尽きない御言葉の恵みに、わたしたちは日々生かされています。

キリストの恵みにわたしたちは生かされています。キリストにわたしたちは罪を赦され、命をいただいているのです。

教会はこのキリストの体です。キリストの恵みに満ち満ちているのです。

五千人の給食、四千人の給食の奇跡に、わたしたちは生きているのです。

主イエスご自身からパンをいただいた弟子たちが、群集にパンを配った弟子たちが、パンの恵みを忘れてしまったというのが、今日のお話です。

詩編78編56節以下です。彼らはいと高き神を試み、反抗し、その定めを守らず、先祖と同じように背き、裏切り、欺く弓で射た矢のようにそれて行き、異教の祭壇に仕えて神を怒らせ、偶像を拝んで神の激情を引き起こした。

人間の罪が言われます。人は神さまから離れ、逆らい、背いてしまうのです。

口語訳では狂った弓と書かれています。弓が曲がって、的に当たらないのです。

人間の罪、業(ごう)です。神さまでないものを神さまとするのです。それは、人間の欲なのです。

弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れました。一つのパンしか舟の中に持って来ていなかったというのです。

そこで主イエスは、ファリサイ派とヘロデのパン種によく気をつけなさいと言いました。

そして弟子たちは、自分たちがパンを持っていないからだと論じ合ったというのです。

主イエスは、パン種のことを言いました。パンの奇跡のことではなかったのです。パン種とパンは違います。それを、弟子たちは勘違いしたのです。

パン種には気をつけなさいと主イエスは言われました。パン種は、イースト菌、膨らまし粉、酵母のことです。パンをふっくらとふくらます役目があります。パンを焼くときには欠かせないものです。

聖書では、このパン種は、すべてではありませんが、おおよそ悪い意味で用いられます。

たとえば、悪意と邪悪なパン種に注意しなさいという言葉があります。目に見えないほど小さなパン種は、ふくらんで、自分がふくらむというより、悪いものを大きくするのです。パン種は、悪い影響をおよぼすものという意味なのです。

主イエスは、ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけなさいと言いました。それは、悪いパン種には気をつけるようにという意味だったのです。

ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種は、主イエスの十字架につけるという殺意を生んでいきました。主イエスは、パン種を、そのことを言ったものなのです。

ファリサイ派は律法主義者でした。律法遵守によって救われるという行為義認主義者でした。

ファリサイ派は、主イエスと対立します。敵対関係が、彼らの殺意が、主イエスの十字架刑につながったのです。

ヘロデのパン種も同様でした。

主イエスは言いました。まだ分からないか。まだ悟らないのか。心が頑なになっているのか。見えないのか。聞こえないのか。覚えていないのかというのです。

パンの奇跡、五千人に五つのパンを裂いたとき、四千人に七つのパンを裂いたとき、余りがいくつあったかと。恵みが、わたしたちには溢れるほどにいただいているのに、悟らないのかと言ったのです。

詩編23編です。主が羊飼い、わたしたちは羊です。

疲れた時、主は青草の原にわたしたちを休ませ、憩いの水のひとりに連れて行ってくださいます。困難な時、わたしたちを助け、導いてくださいます。

わたしたちは何も欠けることがありません。足りないということがありません。主イエス・キリストが供にいてくださるからです。溢れるほどの恵みをいただいているのです。

教会はキリストの体です。わたしたちはその手足、枝々です。キリストがここにおられるのです。

キリストを十字架につけたわたしたちの罪が赦されました。教会はこの恵みに満ち満ちているのです。

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