2022年10月2日(日)聖霊降臨節第18主日 世界聖餐日・世界宣教の日 宣教要旨

マルコによる福音書14章22~26節

「主の晩餐にあずかる」

14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」

14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。

14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

過越の祭りを、イスラエルの人々は春に祝いました。

過越は、神さまの怒りが過ぎ越す、通り過ぎるという意味です。

イスラエルの人々は、約400年の間、エジプトで寄留の生活を送りました。特に後半は、倉庫の町ピトムやラメセスの建設に従事しました。使役で、奴隷のような生活を送っていたのです。

イスラエルが国外に出ることを頑なに拒むエジプト王ファラオ(王の称号)がいました。

イスラエルの神さまは、10の災いを、エジプトに次から次へと起こします。

そして、最後の災いが初子の死でした。とうとうファラオは、イスラエルがエジプトを出ることを認めるのです。

そのときのことです。出エジプト記の第12章です。イスラエルの家だけは、その門柱と鴨居に、当歳の羊の血を塗ることで、イスラエルの家だけは、血が目印となって、初子の死をまぬがれたのです。神さまの怒りが、イスラエルの家だけは、小羊の血が目印となって、怒りが過ぎ越していったのです。

こうして、イスラエルはエジプトを出ることができました。

出エジプト記は、イスラエルがエジプトを出た、奴隷の束縛から解放された脱出記です。

こうして、神さまの過越を。イスラエルの人々は、後々まで忘れることのないように、思い出すために、過越の祭りを守っていったのです。

小羊を屠りました。犠牲の小羊を覚えました。

種入れぬパンと苦菜は、エジプト出るとき、急いでいたためでした。膨らましこの入っていないパンです。苦菜は、タンポポに似た苦い菜っ葉です。

イスラエルは、あわててエジプトを脱出しました。そのときのことを、神さまの恵みを、神さまの赦しを、いつまでも忘れないために、過越の祭りを毎年祝ったのです。

過越の食事です。おいしくない種入れぬパンと、苦い苦菜を食べて、エジプトを出たときの救いを思い出しました。

今日は世界聖餐日です。主の晩餐にわたしたちもあずかります。エジプトを出たという出来事を忘れないためです。イスラエルの人々が、今でも守っている過越の祭りを、わたしたちは主の晩餐として、主の救いの恵みを思い出すのです。

つまり、過越の祭りを、わたしたちは、主の晩餐として、ほとんど同じように守っているのです。当歳の小羊は、わたしたちには、キリストの体と血にあたるのです。

感謝、記念(思い出)、契約、交わりと、聖餐式を説明する聖書の言葉があります。これらの言葉は、エジプトを出るときにイスラエルの人々が受けた恵みを表すのです。

エジプトは象徴です。誰にもエジプトがあります。苦難であり、奴隷であり、罪であり、病気や死です。

エジプトは人生の重荷であり、そこに、神さまの裁きと怒りが落ちます。わたしたちにエジプトがのしかかります。わたしたちは、何とか自分のエジプトから出たいのです。

そのエジプトを出たときの記念が過越の祭りでした。

主イエスとその一行は、エルサレムでの最後の1週間を過ごします。受難週と、後に言われるようになる1週間です。

ニサンの月の14日、木曜日の夕食のときです。最後の晩餐と言われるようになる食事のときです。主イエスと弟子たちは、過越の食事を用意しました。

小羊の肉と苦菜、祭りの食事の習慣に従いました。エジプトを出たときの恵みを忘れないために、一緒に過越の食事をしたのです。

そのとき主イエスはこう言われました。一同が食事をしていると、主イエスはパンを取り、讃美の祈り唱え、それを裂き、弟子たちに渡しました。

主イエスの言葉です。弟子たちに渡されたパンを、取りなさい。これはわたしの体である。杯も同じように、杯を取り、感謝の祈りを唱えて。また弟子たちに渡されました。弟子たちはそれを飲んだのです。

これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

エレミヤ書です。見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破ったと主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれであると主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

はっきり言っておく、神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。

神の国で新たに飲むその日までとは、いつの日のことか、理解は諸説あります。主イエスの復活の後でしょうか。わたしたちの人生が終わってでしょうか。

この世の終わりに、完成の日に、主イエスと本当にまた出会うということでしょうか。

キリストはここにおられます。礼拝を、御言葉と御霊によって導いておられます。特に、見える言葉としての聖餐式に、キリストがおられるのです。わたしたちは、キリストに、キリストの体であるパンとキリストの血であるぶどう酒にあずかるのです。

これは多くの人のために流されたわたしの血である。多くの人とは、全ての人のためにという意味です。

契約の血とは、旧約、新約の契約のことです。主イエスによって新しく更新された契約という意味です。

神さまとの特別な関係を、神さまがわたしたちと契約を結びました。独り子イエス・キリストを、過越の犠牲の小羊としてくださいました。キリストを、十字架につけられ、血を流してわたしたちの罪を過ぎ越され、見逃してくださったのです。

この杯は契約の血とは、そういう意味なのです。 教会は、主の晩餐の聖礼典を守り通してきました。主への感謝であり、主をいつも忘れないように、主の救いをいつも思い出すためなのです。

聖餐は、記念として、神さまに出会うための交わりです。わたしたちの一致のしるしとして、聖餐は、世々守られてきたのです。

今日は、世界聖餐日です。教派を超えて、主の晩餐にあずかる日です。信仰の一致です。

世界宣教の日です。主の晩餐にあずかり、宣教の御業に歩み出す日です。

主の晩餐と見出しにあります。最後の晩餐ではありません。最後の晩餐として知られる箇所ですが、主の晩餐と書いてあります。

それは、最後ではないからです。世の終わりまで、主イエスがパンを取って、裂いて、渡してくださいます。杯も同じように、杯を取って、主イエスが渡してくださるのです。

最後でなく、繰り返し、繰り返し、キリストに感謝するために、キリストをいつも忘れないために、キリストにここで出会うために、繰り返し、繰り返しあずかるのです。

主の晩餐です。主イエスが、この食卓の、過越の記念の食事のテーブルマスターです。

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