2023年1月22日(日)降誕節第5主日 宣教要旨

ルカによる福音書5章1~11節

「網を降ろし漁をしなさい」

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

今日の聖書の箇所は、ペトロが主イエスの弟子となる時のことが記されています。それは、出会いというには、あまりにも一方的な出来事でした。

 ペテロは、人々が主イエスの話を聞きに押し寄せてきているのに、まるで、そんなことが気にかからないかのように、舟をおりて網を洗っていました。

 説教が終わり、主イエスの口から出た言葉は、まったく意外なものでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

 もう日もだいぶ高くなっていたに違いありません。そんな時間に漁をする人はいません。漁師ペトロの常識から言うと、まったく話にならない、馬鹿げたことでした。

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」プロの漁師としてのペトロの思いが、ここには込められています。

 しかし、ペトロは主イエスのお言葉だからというので、網をおろしてみることにしたのです。すると、思いがけないことが起こります。網が破れそうになる程の大漁でした。

 ペテロを見いだすのは、主イエスです。終始、先に働きかけ、ペトロを導いています。

 主イエスは、強引にペテロの舟にのり、ご自身の説教壇としました。お節介にも、「沖へ漕ぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と命じ、ペテロの心をご自分に向けさせ、そして、確かな手ごたえをお与えになります。

 もとより、ペテロにも弟子となる動機があったかもしれません。夜を徹して働きながらも、一匹も魚が捕れずに網を引き上げなければならい、その姿の中に漂うこの世の空しさが、主イエスに向かった。そう考えることができるかもしれません。

 主イエスの言葉に促されて、もう一度湖の中央まで漕ぎ出して網をおろす。そこに、ペテロの信仰を認める事もできるでありましょう。

 しかし、ここで、ペテロをして弟子たらしめたのは、それらのことではなく、主イエスの働きかけであり、導きでありました。

 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の1章で次のように記しています。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」

 「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」これは、コリントの教会の信徒だけあてはまることではありませんでした。

 最初の弟子、ペトロが召し出されときも、この言葉の通りだったので。

 主イエスは、いっさいの資格を問われませんでした。信仰すら問われませんでした。そして、主イエスは何と言われたか。「恐れることはない。今から後、お前は人間を捕る漁師になる」。そう言われたのでした。

 ペテロが、聞いたことは、たくさんのことではありません。ただひとつのことです。

 お前は、今まで、魚を捕り、市場に持って行き、人々に魚をとどけていた。今から後は、お前は人々を捕らえ、まことの生命を与えるために、主イエスのもとにつれてくる。そうだ、お前は今から人間をとる漁師になるのだ。

 わたしは、お前に新しい使命を与える。わたしは今、お前を必要としている。お前をわたしが創りかえると主イエスは言われるのです。そして、お前はそれができると主イエスは言われるのです。

 主イエスのお言葉は、ペテロを弟子として創りかえる、創造の言葉です。この言葉によって、ペテロは生涯をとおして主イエスの弟子とされたのです。

 さらに、二つのことを心に留めたいと思います。一つは、「人間をとる漁師」、この言葉の革新的な意味です。

 旧約聖書の時代から、この言葉は、人を神さまのところに連れてくる、そういう働きをする人のことを指していました。しかし、旧約聖書の人々は恐れをもってその言葉を耳にしていました。

 それは、神さまが罪人を裁くために、隠れている罪人を捜し出し、神さまの前に連れ出すことを意味しました。

 しかし、主イエスは、この同じ言葉を用いて、ペテロを弟子として創り変え、創造する言葉としているのです。そうすることによって、主イエスは、神さまが罪人を憐れみ、愛し、神さまの恵みを知って生きる正しい人としたもうことを教えようとされるのです。

 もう一つのことは、8節に記されているシモン・ペトロの言葉です。

 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」

 この言葉に注意深くありたいと思います。「わたしは罪深い者です」と告白されています。決して、「わたしは罪を犯しました」とは言わなかったのです。

 わたしたちは数々の罪を重ねるでしょう。過ちを犯すでしょう。しかし、わたしたちの告白の言葉は、「わたしは罪深い者」なのです。

 ルカによる福音書は、弟子たちの召命物語の中に、一つの出来事を伝えています。

 それは、ペトロが一日中、ガリラヤ湖で漁をしていたけれども、一匹の魚もとれない。そこに、主イエスがこられて、もう一度、網を下ろして漁をしなさい、とお命じになる。お言葉だからというので、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が捕れた。その時、ペトロは主イエスの前にひざまずいて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と言ったというのです。

 まことに神さまがおられる。主イエスがおいでくださった。その時に知ることは、わたしたちの罪の姿です。「わたしから離れてください」としか言いようがない。しかし、主イエスは、そのペトロに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師になるのだ」と言われるのです。

 ペトロが、お弟子とされた時に、見せた後ろ姿は、そのような姿だったのです。

 人間の弱さや、罪を知る。その人間を慈しみ、愛し、神さまの国に迎えてくださり、神さまの前にぬかづくのです。その姿こそ、見せるべきものです。その姿が、人を納得させるのではないでしょう。

 「日本の父」の著者フォス神父は、ご自分の本の中で自分のことについて触れています。

 この方は、決して裕福ではない家に育った。しかし、貧しい生活をしているお父さんは、自分の息子が勉強をし、大学で学ぶことができるようにと、一生懸命に働いてくれた。ところが、大学に入る歳になったとき、父親の期待に反して、息子、自分は、大学にではなく、教会の神父になるために修道会イエズス会に入るのです。

 戸惑い、悩んだことでしょうが、父親は、息子を祝福して、イエズス会に送りだしてくれたというのです。

 その時、自分の父親が、神さまの前にぬかづいている人だということを、あらためて知らされたというのです。

 主イエスは漁師たちを弟子として招くために、彼らのところに赴かれました。

 ペテロたちは、主イエスが近づき呼び集めてくださったので弟子とされたのでした。

 そして、主イエスが罪人を神さまの国へと招いてくださっている、その福音を身に帯びて、弟子たちも人間を捕る漁師として遣わされることになったのです。

5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

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