2021年5月30日(日)聖霊降臨節第2主日 三位一体主日 宣教要旨

マタイによる福音書11章25~30節

「わたしのもとに来なさい」

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

今日は、三位一体主日です。

父、子、聖霊なる3つの位格の神さまが、ひとつの本質であること、3つにてひとりの神さまを礼拝する日曜日です。

三位一体の神さまは、キリスト教の奥義です。

聖書は、主イエスの招きの言葉です。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしたちは、皆、疲れています。生きることは疲れることでもあります。

わたしたちは、後ろ向きの疲れでいっぱいで、希望が無いのです。これは悲しい疲れです。

人は、良い人間関係を求めるので、それがうまくいきません。人生に疲れてしまって、あらゆることに意欲が失われて、元気がないのではないでしょうか・

人の怒りがぶつかりあいます。

精神的な疲れが、肉体の疲れも引き起こし、そして、霊的な疲れを引き起こします。人間関係も、自分だけでなく、神さまとの関係も、霊的低下がおきているのではないでしょうか。

そういう疲れた者に、重荷を負う者は、わたしのもとにきなさいと主イエスは言われたのです。

人は、皆、重荷を負って生きています。

聖書は、すべての人は罪人であると、罪を犯したといいます。罪の結果、罪の罰として、死を受けたと書きます。

聖書は、疲れて、重荷を負って生きざるをえない人の現実を、罪と死の関係でときあかすのです。

主イエスは、語りかけて、来なさい、休ませてあげようと言われます。

休ませるということは、仕事から離れて、仕事を休む、そして、元気をとりもどすということです。

ところで、そのキリストはどこにおられるのでしょうか。

キリストは、約2000年前、今のイスラエルという国を中心に地上を歩まれ、いろいろなことをなさいました。

病気のひとを憐れみ、困難な人を慰め励まし、天の国は近づいたと、御国の福音をといてまわったのです。

そして、エルサレムで、十字架にかけられ、息を引き取ることになります。

しかし、神さまは、キリストを墓の中にくちしめることなく、3日目に復活させ、40日の間、弟子たちに親しく、共に生き、皆が見ている前で、天に上げられました。

そのキリストはどこにおられるのでしょうか。

聖書、福音書と使徒言行録は、キリストのご生涯の記録です。

キリストは、今は、天におられ、神さまの右に座しておられます。この地上には、キリストが地上にいたときのようにはおられません。

霊的なキリストが、疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげようと言うのです。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

軛とは、牛馬を御する道具のことです。

牛や馬につけると、右に行ったり、左に行ったり、動いたり、止まったりさせる道具です。牛馬がものを引いたりする道具です。

牛馬にとっては自由でない道具です。奴隷の軛という言葉があるように、聖書の言葉では、軛は不自由の象徴でした。

主イエスは、この軛作りの名人であったという伝説があります。

わたしの軛は負いやすいと主イエスは言われました。

わたしたちは、主イエス・キリストの軛を負う者、キリストに従う者とされているのです。

学ぶというのは、弟子になるという意味です。

キリストに従い、キリストを真似ることで、そうすれば、あなたがたは安らぎを得られるというのです。

ほとんどの宗教は、修行の宗教です。行や苦行を積んで悟りを得ます。特別な人だけの行であるかもしれません。

しかし、キリスト教は違うと思います。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。キリストの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いのです。

キリスト教は、柔和でやわらかいのです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣 べて、父である神をたたえるのです。

キリストは柔和で、徹底的な謙遜、十字架の死につかれました。

わたしたちの罪の身代わりの死です。

神さまは、キリストをとおしてわたしたちの罪を受け止め、わたしたちを赦しておられるのです。

キリストの招きに飛び込む人は、疲れても疲れない、重荷だが、荷は軽いのです。

キリストに、誰もが招かれています。

主イエス・キリストは、今は、天におられます。聖霊をもって、わたしたちに臨んでおられます。聖霊が、わたしたちに注がれているのです。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

聖霊と共に、キリストはおられます。

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

父と子と聖霊なる神さまがおられます。

わたしのもとに来なさい、休ませてあげようと言われるキリスト、子なる神さまがおられます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です