ルカによる福音書8章4~15節
「種を蒔く人のたとえ」
8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」
8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。8:12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。8:13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。8:14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」
「種蒔きのたとえ」です。
種を蒔く人が種を蒔きに出て行きました。
主イエスの時代の日常の生活の様子が、ここには映し出されています。ある種は道端に落ち、ある種は石地に落ち、ある種は茨の中に落ち、ある種は良い土地に落ちました。
種といえば、当時のことですから麦です。当時の麦の種の蒔き方は、今日のような畝を作って、穴をあけて、そこに種を入れていくというような仕方ではありません。直蒔きです。農夫が手に種を持って蒔きます。そして、蒔いた後に適当に土を耕す。それが、当時の農業のやり方だったと言われています。ですから、耕されず、あぜ道となるような場所に残される、ごつごつしたままの石地に残されてしまう、あるいは茨が生えたままの土地に残される、そのようなことは日常よく見られることでした。
ずいぶん無駄の出る方法ですが、その様子に重ねて、主イエスはご自分の伝道、すなわち神さまの御言葉の種蒔きのことをお話になったのです。
このたとえ話には解説がついています。有名な説き明かしで、11節からそのお話が記されています。しかし、たとえ話というのは、それによって豊かな神さまの恵みを聞かせてくれます。11節からの説き明かしと共に、福音書は、たとえ話そのものを、わたしたちが味わうことのできるように配慮されているようです。
種は言葉です。神さまの御言葉、福音の種が蒔かれます。それを蒔くのは神さまご自身です。
しかし、このたとえ話の中に登場する農夫は、いささか間の抜けた、きっちりとしたところのない人のように思われます。少しも努力をしない。ただ種を無造作に蒔くだけ、そんな印象を受けます。わたしたちは、何か奇妙な、おかしなところを、このたとえの中に感じ取るのではないかと思います。
当時のパレスチナの農業の方法が映し出されていると言いましたが、それにしても、なお、このたとえ話しは、おかしな、奇妙なところを感じさせます。しかし、そうではありません。思いがけない大切なことを、それによってわたしたちに気づかせてくれます。
その一つのことは、神さまの種蒔きには、区別や境界線がないということです。
道端にも蒔かれます。鳥がきてすぐに食べられてしまうような道端にも、また、土の薄い石のおおい所にも蒔かれます。すぐに根が出ても、土が深くないので枯れてしまうような石地にも、そして、茨の中にも蒔かれます。光がふさがれ、養分が奪い取られてしまって、成長できないような所にも蒔かれます。神さまの御言葉は、分け隔てなく蒔かれるのです。
人々の間に気前よく蒔かれます。それが、神さまの種蒔きであるということです。
主イエスの伝道は、この世界の片隅からはじめられました。
ある人の文章です。
「近づきつつある神の国、神の国の訪れが語り始められようとしている。しかし、そこは、帝国の中心である世界都市ローマでもなく、ユダヤ人の宗教的中心であるエルサレムでもなく、ガリラヤの北部の小さな湖の岸辺、世界の辺境、片隅でありました。」
片隅で始まったということは、いたるところに宣べ伝えられるということにほかなりません。特別な場所、それに値するような良い場所というのではなくて、どこででも、いたるところに宣べ伝えられるのです。
それは場所的なことだけではありません。主イエスは、一介の漁師たちを弟子として、これを重んじ、また、罪人と呼ばれている人々、神さまから遠く離れていると見なされていた人々に近づき、福音を伝え、徴税人をも弟子としてお召しになりました。安息日には常識を破って助けを必要とする人をお癒しになりました。
主イエスにお仕えする婦人たちの中に、罪の多い女性と呼ばれていたマグダラの女性も含まれていました。
神さまの言葉は清い清潔な者たちの中に保たれていなければならないと堅く信じる人々にとっては、それは驚きだったに違いありません。人々は、境界線をさだめ、境を意識していたからです。
しかし、主イエスは、この種まきのたとえで、神さまの言葉は分け隔てなく蒔かれるということをお教えになったのです。ことに、種にとって過酷な場所、困難の大きなところにまで蒔かれていることを告げています。
パレスチナは、雨の少ない所です。ほとんどの場所は、荒野だったと言われています。
そこに、植物が育つというのは大変なことで、水分を取るために、地中深く根をはらなければならないのだそうです。
ですから、石地や、茨の少しでも生えているところでさえ、種にとっては致命傷で、そこでは育つことができないのだそうです。
しかし、困難の大きなところ、過酷な場所に、種は蒔かれていると主イエスは言われたのです。
もっとも過酷な場所、困難の大きなところとはどこでしょうか。徴税人や遊女など、当時の人々が罪人と呼んだ人々のところでしょう。そこも、確かに荒地でありましょう。
しかし、主イエスを殺そうと計るような人々、その心こそ、もっとも大きな困難な場所だったのではないでしょうか。聞く耳を持たない者、主イエスを拒絶し、葬り去ろうとする人間の世界や心にまで、種は蒔かれたのです。
そして、人の目から見れば、神の国は覆い尽くされ、隠され、やっつけられてしまっているように見えるところにこそ、種は蒔かれたのです
しかし、主イエスは、この困難な種蒔きは、決して失望に終わることはない。種は力を発揮して、予想をはるかに越えた収穫をもたらすことを告げました。御言葉は良い地に落ち、生え出て、あるものは百倍の実を結んだと、そうお語りになったのです。
主イエス・キリストは神さまの御言葉が良い土地に落ちて百倍の実を結ぶとお語りになり、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。
蒔かれた御言葉というのは、主イエス・キリストご自身です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と主イエスは言われました。
そして、このたとえ話の中でも、種を蒔く、その種は蒔かれたと言わないで、「落ちた」と表現されています。
ここで「落ちる」と翻訳されている言葉は、倒れるという意味もあります。そこから、ひれ伏すとか、うつ伏せになるという意味で用いられました。
クリスマスの物語です。異邦人である東の学者たちが遠くから来て幼子にひれ伏し、礼拝したと記されています。そこで用いられているのがこの言葉です。
そして 主イエスの受難物語にも、この言葉は使われています。
主イエスがゲツセマネで祈られた時、「イエスはうつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」
うつ伏せになる、それがこの言葉です。ひれ伏すとも訳されます。体が倒れる、体を倒し、うつ伏せになって、父なる神さまを礼拝し、祈られたと、そう表現されています。
杯とは、主イエスの十字架のことです。
イスラエルの王として、救い主としてお生まれになったお方は、わたくしたち人間の罪の贖いのために、十字架にご自身をささげてくださったお方、十字架にその身を落としてくださったお方でありました。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶと言われた主イエスが、この種蒔きのたとえをお話くださったのです。