2022年12月4日(日)降誕前第3主日・待降節第2主日 宣教要旨

ルカによる福音書4章16~21節

「主の恵みの年を告げるため」

4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

主の恵みの年を告げるためと、主イエスが、お育ちになったナザレの会堂で、安息日に、イザヤの巻物を開いて話始められました。

主の恵みの年は、イザヤ書61章2節の言葉です。主が恵みをお与えになる年、ヨベルの年という意味です。

また、レビ記の25章に、ヨベルの年という特別な恵みの年のことが記されています。

ヨベルの年は、安息の年のことです。50年に一度、この年になると、借金のある者は返済が免除されました。借金もできない人は、自分を奴隷として、自分を売り渡した人々は、その年が来ると自由にされました。

先祖伝来の土地を困って手放した人は、ヨベルの年が来ると自分のものに、持ち主に戻されたのです。抵当として入っていた場合も戻されました。

このレビ記の律法は、神さまの律法の中でも、最もすぐれたものであったといわれます。

一部の人が富み、あまりにも豊かな生活ができる人がいました。しかし、大多数の貧しい人々が貧しくならないようにという規定、制度であったのです。

単に、世の中の不平等を、貧富の差をなくさなくてはいけないというのではありません。神さまが与えてくださった恵みを、わたしたちがいただている賜物を、誰もがもう一度受け取ることができるようにという律法だったのです。

わたしたちが神さまからいただいた恵みを、絶えず受け取りなおす必要があったのです。

豊かすぎることで見失うことがあります。貧しくて失うこともあります。貧しさというのは、失っているということだからです。

ヨベルという言葉はラッパのことですが、角笛のことです。恵みの年にラッパが鳴り響き、恵みの年が来たと告げ知らされたのです。

いつの頃からか、ヨベル、ヨベルの年と言われるようになりました。

実際のところ、ヨベルの規定が行われたのかは、イスラエルの歴史の中でははっきりしません。この規定が守られたことは、実際になかったのでしょう。

借金が帳消しになるとか、土地が戻るとか、奴隷の身分から解放されるとか、50年に一度の、一生に一度の恵みの年は、実際はなかったであろうと言われます。

しかし、人々の心の中には、神さまはヨベルの年をお定めになったと、深く心に留めていたのです。

神さまは、恵みの前に再びわたしたちを立たせてくださる。本当に自由な人として生かしてくださる。深く、人々の心の中に根付いていたのです。

人々は、その年が来ることを、ヨベルの年のことをくりかえし思い起こし、待ち望んでいたのです。

イザヤ書61章1節から2節です。主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために、主が恵みをお与えになる年。

61章の最後、10節、11節です。わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。

大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

結びは、神さまが栄光を現わされる。大いなる救いの日が来る。神の民はその栄光に与り、神の前にすべての民を整えさせる。その務めのゆえに誉れを受けるというのです。

このように、主イエスは、イザヤ書を読まれ、また巻物を巻いて座られました。人々のまなざしが主イエスに向けられました。そこで主イエスは、この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき実現したと話し始められたのです。

すなわち、この聖書の言葉は、このわたし、主イエスが口で読まれたときに実現したと語ったのです。恵みの年、ヨベルの年が、安息日のナザレの会堂で、シナゴーグで読まれたときに始まりました。

すなわち、今日、わたしたちは、主イエスがご臨在される、神さまの御心の現れである教会で読まれるとき、繰り返し、繰り返し、わたしたちも、ヨベルの年の始まりを聞いているのです。

主イエスは、ご自分が解放の始まり、救いの開始であると語り始めたのです。

今日という言葉は、ルカによる福音書にしばしば出てくる言葉です。この日という意味です。主イエスのお言葉、主イエスについてのお言葉に出てきます。

19章で、エリコの町を主イエスの一行が通られた時、徴税人の頭をしていたザアカイが、いちじく桑の木に上って主イエスを見ようとしました。主イエスは、是非あなたの家に泊まりたいと言いました。

その食事の時、ザアカイが悔い改めて、財産の半分を貧しい人々のために施します。だましとっていたお金があれば4倍にして返しますと言いました。そこで主イエスは、今日、救いがこの家を訪れたと言いました。

今日救いを、神さまの恵みを、ふたたびザアカイが受け取ったのです。

キリストが十字架におつきになったとき、ふたりの犯罪人が右と左にかけられました。ルカによる福音書23章です。

一人は主イエスをののしります。メシアならわれわれを救ってみろと。もう一人の方が、わたしたちは十字架の報いを受けている。この方は、主イエスは何も悪いことはしていない。御国が来る時にはわたしを思い出してくださいと言いました。

そこで主イエスは、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。救いの中にあると言ったのです。

クリスマスの時、その地方で野宿をしていた羊飼いたちに、主の栄光が周りを照らし、天使の言葉を聞きました。

恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

主イエスが、恵みのヨベルの年の始まりを、レビ記の律法ではなく、イザヤの預言をひもとき、また、イザヤ書そのままの言葉でなく言いました。

捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためであると少し言い変えたのです。

決して土地が戻される、借金が帳消しにされる、奴隷の身分が解放されるのではありません。物質的な恵みの回復ではなく、捕われからの解き放ちです。圧迫、抑圧からの解き放ちと、イザヤ書の言葉に沿って言い換えたのです。

主イエスの御言葉の解き明かしです。主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。

今日救いが実現しました。主イエスが口に、御言葉を読まれるとき、御言葉を現すとき、恵みが、救いが、解放が実現しているのです。

ヨベルの年の始まりです。

御言葉にあるように、今日、聖書の言葉が礼拝で読まれるとき、聖餐の恵みにあずかるとき、キリストがここにおられるのです。

わたしたちの罪のために十字架にかかり、三日目にご復活された、霊なる体をもったキリストがわたしたちに臨み、パンとぶどう酒を通して、再び、繰り返し、ヨベルの年の始まりと実現を与えてくださるのです。

本当にキリストはここに生きておられるのです。

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