2023年9月3日(日)聖霊降臨節第15主日 宣教要旨

ルカによる福音書15章1節~10節

「見失った羊のたとえ」

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 ルカによる福音書15章には、同じような趣旨で語られている、よく知られた三つのたとえ話が記されています。今日は、その最初の二つのたとえを読んでいただきました。

 最初のたとえは、見失った一匹の羊のたとえです。

 羊は一匹では生きていけません。弱い動物だからです。それだけではありません。視力が弱く、視野が狭いそうです。ですから、自分の行くべき所を自分で捜すことができません。

 一匹の羊が、群れから離れ、羊飼いのもとを離れてしまったら、失われたままです。それは心細いことでありましょう。

 その一匹の羊を探しまわる羊飼いのことが語られています。誰もが、この羊飼いの振る舞いに共感し、それを喜ぶのです。

 それにしても、九十九匹はどうなったのでしょうか。たとえ話は、野原に残された九十九匹は、羊飼いがいなくなっても大丈夫なのだろうかという問いを、宿題として残したままにしています。

それよりも、ここでは、見失った一匹の羊を捜し廻る羊飼いに焦点があてられています。

 二つ目のたとえ話は、無くした一枚の銀貨のたとえです。

 ドラクメ銀貨というのは、聖書の後ろ、付録の中に「度量衡及び通貨」という表がありますが、それを見ると分かるように、一デナリオン、つまり一人の労働者の一日の賃金に当たる金額です。

ですから、この銀貨一枚を無くすことは、一日の働きを無駄にすることになります。

 しかし、それだけではなくて、その銀貨はかけがえのないものだったようです。

 聖書の研究者は、このたとえにでてくる十枚の銀貨というのは、一つの糸に結ばれて、連なっており、ネックレスになっていたのではないかと言っています。

 そのような銀貨を連ねたネックレスを、当時、母親は結婚する娘に持たせたのだそうです。ですから、大切な銀貨です。銀貨を無くしてしまった女性の気持ちを、誰もが理解できたことでありましょう。

 そして、彼女は、もしや家の中に落ちているかもしれないと思って家を必死に掃いて探したのです。

 当時のことですから、家の中とはいえ、捜し出すのはたやすいことではありませんでした。床は土や砂で厚く覆われていました。さらに、窓は小さく、光が届かないのです。

 たとえ話は、必死になって探し出そうとする女性のことを語ります。

 そして、主イエスは、それぞれのたとえの最後に、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」とお語りになり、また、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と言いました。

 今日は、この二つのたとえ話から、いくつかのことを心にとめたいと思います。

 第一のことです。

 主イエスは、ここで天の父なる神さまの御心を示しておられるということです。すなわち、神さまは、たとえその人がどのような人であっても、ご自分のもとに立ち帰ることができるように、探し求めるお方であるということです。

 たとえ話に出てくる羊飼いや、あの女性のように、神さまも同じように、ご自分の大切なものが失われていくのを放っておくのではなく、捜しに来て、見つけ出し、なんとしてでも、ご自分のもとに取り戻そうとなさるお方であると主イエスはお話になったのです。

 そして、そのために、ご自分の独り子をこの世に遣わして下さったのです。

 次のことです。一連のたとえ話に共通するテーマがあります。その一つは「悔い改め」ということです。

 今日の箇所でも、たとえ話のそれぞれの終わりのところで、「悔い改める一人の罪人については」とか「一人の罪人が悔い改めれば」と語られています。

 しかし、よく読んでみると、今日の二つのたとえ話には、罪人が悔い改めること、つまり心の向きを変えて神さまのもとに帰って来るということが、直接、書かれているところはありません。

 迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰ったのではありません。そもそも羊にはそんなことはできないのです。

 また、銀貨はなおさらです。どちらも、自分で持ち主の所に帰ることはできません。つまり、自分から悔い改めることなどできないのです。

 この二つのたとえ話は、神さまの方が罪人を捜しに来て下さり、見つけ出して下さるということを伝えています。それなのに、主イエスはこの二つのたとえを、「罪人の悔い改め」のたとえだと言っておられるのです。

 主イエスがそう言われるのは、この二つのたとえ話によって、わたしたちの悔い改めを可能にする根拠、土台が語られているからです。

 わたしたちは、自分が神さまのもとから迷い出て、道を見失い、失われた者となっていることを認め、主イエス・キリストのもとに来て、その御言葉を聞き、救いにあずかるのです。それがわたしたちの悔い改めです。

 しかしわたしたち人間は、そもそも自分が罪人であることに気づきませんし、それを認めようとしません。ファリサイ派の人々がそうだったように、誰それと比べれば自分は清く正しく生きている。そのようなことを拠り所としているのです。そして、自分のプライドを守ろうとしているのではないでしょうか。

 だから、自分がこのままでは失われたままで、死と滅びを待つしかない者だなどとは考えずに、むしろ自分は安全だ、確かだと思って歩んでいる。それがわたしたちの姿なのではないでしょうか。そのようなわたしたちは、自分で悔い改めて神さまのもとに帰り、救いにあずかることは限りなく困難なことです。

 しかし、神さまは、そのようなわたしたちを、ご自分の大切なものとして愛して下さっています。そして、なんとかしてわたしたちを救い出したいと思っておられる。その御心によって、神さまの方から、わたしたちを捜しに来て下さるのです。

 独り子イエス・キリストがこの世に生まれて下さり、十字架にかかって死んで下さったのはそのためでした。

 主イエス・キリストのご生涯、特にその十字架の死と復活によって、神さまはわたしたちのことを必死に捜し回り、ようやく見つけ出し、連れ帰って下さるという御心を具体的にお示しくださったのです。

 わたしたちは、この主イエスのご生涯に示されている御心に触れることによって、自分の罪に気づかされ、この御心に支えられて、主イエスのもとに来て、その救いにあずかることができるのです。

 見失われた一匹の羊のたとえ、そして、無くした一枚の銀貨のたとえは、わたしたちが悔い改めて救いにあずかるための土台を、神さまご自身がしっかりと据えて下さっているということを伝えています。主イエスが、そのことをお示しくださったのです。

 最後のことです。天にある喜びについてです。

 見失った羊を見つけ出した羊飼いは、「喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。また無くした銀貨を見つけた女性も、「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。

 天にある喜び、それは、ルカによる福音書15章を貫いている最も大事なテーマです。

 失われていた大切なわたしたちを見出した神さまは、大いに喜んでいるのです。

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