2023年11月5日(日)降誕前第8主日 聖徒の日・永眠者記念日礼拝 宣教要旨

ルカによる福音書17章20節~37節

「神の国が来る」

17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

17:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。17:23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。

17:24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。17:25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。

17:26 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

17:28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

17:31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。

17:33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。17:34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。17:35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」17:36 *畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。

17:37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

 ルカによる福音書17章20節以下は、わたくしたちが神の国とどのような関わりにあるのか、神の国とどのように結ばれているのか、ということを語った、主イエスの言葉が記されている箇所です。

 今日は、特に、20節と21節に心を留めて読みたいと思います。

主イエスの言葉は、ファリサイ派の人々に向かって語った言葉でした。

 ファリサイ派の人々は、神の国はいつ来るのかと尋ねました。その問いに対して、主イエスは、こう答えました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」。

 神の国とは、「王としての支配」という意味です。ですから、「神の国が来る」というのは、「神の王としての支配が来る、それが実現する」ということです。

 また、神の国が来るということは、この世界の終わり、終末を意味します。

 聖書のギリシャ語では、終末、すなわち終わりを意味する言葉には、二つの意味があります。

 一つは、それまで持続していたものが途切れる、終わってしまう、すなわち、終焉という意味です。

 もう一つは、目当て、目的という意味です。例えば、何かを造ります。コツコツとその作業をします。そして、とうとう完成します。その時、目的を達したということになります。その目当て、目的という意味があるのです。

 神の国が来ます。それは、一方では、この世界、地上的な、この世の反抗的な人間の営みが終わる、終焉を迎えるということです。他方、それは、この世界を造った神さまの創造の目的、それが実現する、完成を見るということです。

 終末とは、このように、一方では裁きの出来事であり、他方では救いの出来事なのです。

 主イエス・キリストは、その公の生涯、伝道の働きを開始したとき、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言いました。

 ファリサイ派の人々は、その神の国が「いつ」来るのかと問うたのでした。この人々も神の国の到来を期待していたのでありましょう。神の国の到来を待ち、その人々の期待、望みが、神の国が来ることにかかっていたのでした。

 しかし、期待するというのは、現在はまだそれが実現していないということです。神さまの王としての支配は、今はまだ実現していない、そのように思わざるを得なかったのでした。

 なぜなら、この世界を支配しているのは何でしょうか。それは人間の力、権力、富などです。ユダヤ人たちの当時の状況から言うと、神の民であるはずの自分たちが、神さまとは関係のない外国人、彼らが異邦人と呼んで蔑んでいたローマ人による、ローマ帝国の圧倒的な軍事力によって征服され、支配されていたのでした。

 ファリサイ派の人々は、このような政治的な期待を内に秘めて、主イエスに、神の国が「いつ」来るのかと問うたのでした。

 その問いに対して、主イエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と答えたのです。

 神の国、終末は、わたしたちが頭の中で考え、イメージしているようなものではない。それが、主イエスがここで言われたことです。

 そして、続けて、主イエスは、こう言われました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。

 神の国は、人間の目に見える形で来るのではありません。「ここに徴がある」、「あそこに前兆がある」と言えるようなものでもありません。神の国はあなたがたの間にあるのだと言ったのです。

 この言葉は、日頃、主イエスに敵対し、主イエスを軽蔑さえしていたファリサイ派の人々に向けて語られました。

 「神の国はあなたがたの間にある」とは、あなたがたが集っているそのまん中に神の国が現にあるということです。

 「ある」とは、現在形、つまり、今、現にそこにあるということです。神の国、神さまのご支配は、あなたがたの間に、今現にあるのだと主イエスは言ったのです。

 まだか、まだか、と言って、神の国を見失っているのがファイサイ派の人々でした。

 「神の国はいつ来るのか」と問うた人々です。その人々は、主イエスに反対し、反抗し、嘲り、ついには主イエスを十字架にかけてしまった、そのような人々でした。

 主イエスは、しかし、その人々に、神の国は、「今」、すでに、あなたがたの間にあると語ったのです。

 主イエスは、あなたがたのただ中に、神の国の訪れが、わたしはその福音を携えて来たと言われたのです。

 主イエスは、神の国の到来の福音を告げ知らせつつ、この世を歩み、そしてわたしたちの罪を全て背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さいました。

 そのことによって、神の国、神さまの恵みの支配が現れたのです。

 父なる神さまは、十字架にかかって死んだ主イエスを、死の力から解放して復活させ、死を越えて生きる新しい命の先駆けとして下さいました。

 主イエス・キリストの十字架と復活によってこそ、父なる神さまは、わたしたちに、罪の赦しと新しい命、永遠の命を約束して下さったのです。

 このように、主イエスは、神さまのご支配を明らかにしてくださいました。

 わたしたちキリスト者は、二つの時の間に歩んでいると言われます。

 すでにと、いまだという二つの時です。

 すでにとは、すでに主イエス・キリストが来られたということです。

 人となられた神さまは、主イエスを十字架にご自身をお渡しになり、わたしたちの罪の贖い、救いとなってくださいました。

 そして、主イエスは復活なさって、天において父なる神の右に座しています。

 すでにとは、その主イエスと共に神の国が来たということです。

 そのために、21節です。主イエスは、ファリサイ派の人々に向かって、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言ったのです。

 もう一つの、いまだとは、22節で「人の子の日」と言われている時のことです。

 人の子とは主イエスのことを指しています。それで、「主の日」とも呼ばれます。それは、主イエスが再びおいでになる日、再臨、あるいは来臨とも呼ばれています。

 その日、主イエス・キリストが神の国の王として地上に再び来られます。その日には、すべての者が、王としての主イエスを知ることとなります。

その時にはただ神の国だけが、人に知られます。すなわち、神の国の完成です。

 24節です。「稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」とあります。

それは、一瞬にして、すなわち、ただ神さまがその日をもたらしてくださり、しかも誰もがはっきりと見ることができる仕方で起るというのです。

 すでに、と、いまだ、この二つの時の間を、中間時と今日言い表しています。二つの時の、間の時ということです。

今日、読んでいただいた17章22節以下はくわしくふれませんでした。

神の国が来ることについて、弟子たちに向かって語った主イエスの言葉が記されています。

わたしたちに対して、相応しい信仰をもって、神の国の完成を待ちつつ、地上の歩みを全うするようにと教えているのです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加