マタイによる福音書24章36~44節
「目を覚ましていなさい」
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
アドベントの第1日曜日を迎えました。目を覚ましていなさいという主イエスのお言葉です。
本当に、わたしたちの人生は、明日、何が起きるのかが分からないものです。誰も分からないのではないでしょうか。それだから、終りの意識を持つことが大事なのではないでしょうか。
宗教改革者マルチン・ルターの回心のきっかけは、友人の突然の死でした。当時、エルフルト大学の哲学のコースで学んでいた頃、その試験の最中、友人が、急性肋膜炎で突然亡くなったのです。
いわゆる、落雷の経験もありました。その二つの経験が、ルターは、法律家への道から、アウグスチヌス隠修道会に入るということにつながったのです。
人の子は来る。目を覚ましていなさいと主イエスは言われます。死を身近に経験することがあります。そのことに目を覚ましていなければならないというのです。
人生には句読点があります。終りを知ること、終りを見つめて生きる生き方が大事なのではないでしょういか。
聖書は、ノアの洪水の話がたとえられます。畑の、ふたりの男とふたりの女は、突然に、ひとりは連れていかれ、ひとりは残ります。
泥棒が押し入るのを、その日、その時は、誰も知りません。
ただ、主イエスは、目を覚ましていなさいと言われました。目を覚ましていなさいとは、ウオッチ、見つめなさい、目をよく開いていなさいという言葉です。グレゴリオテ(グレゴリー)、良く見るようにという言葉です。
ただ、わたしたちは眠くて、目を覚ましていられません。
主イエスが十字架におかかりなる前の夜、ゲツセマネの園で、主イエスが祈っているときのことです。
わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさいと言われ、そして、父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりにではなく、み心のままになりますようにと主イエスは祈りました。
ところが、ペトロと、ふたりのゼベダイの子たち、ヤコブとヨハネは、主イエスのご命令にもかかわらず、目が開いていられなかったのです。彼らは眠っていました。眠り込んでいました。
あなたがたはこのように、わずかひと時も、わたしと共に、目を覚ましていられなかったのか。誘惑におちいらないように、目を覚まして祈っていなさいと主イエスは言われたのです。
心は燃えても、肉体は弱いものです。
さらに、二度目に行ってみても、三度目も、彼らは眠り込んでいました。
ゲツセマネの園で、十字架を受け入れるために、苦しい祈りをなさる主イエスの、そのかたわらに、何も知らず、その主イエスの十字架の死が、わたしたちの罪のためであることを知らずに眠り込む弟子たちでした。
わたしたちは、目を覚ましていられないのです。祈れないのがわたしたちの現実なのです。
そういうわたしたちですが、その日、その時が分からないわたしたちですが、主イエスは、目を覚ましていなさい、祈りなさい、用意していなさいと言われるのです。
気をつけていなさい。用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからです。
人の子とは、聖書では、主イエス・キリストのこと、メシア、キリストのことです。
ダニエル書の7章、見よ、人の子のようなものが天の雲に乗り、日の老いたる者の前に来て、その前に進むとあります。
人の子であるキリストは、目を覚ましていられない、その日、その時を知らないわたしたちのために、また来るのです、
目を覚まして、気をつけて、用意をして、具体的な準備をして、主イエスの、また来られるのをわたしたちは待ちます。
その用意には、3つのことがあります。
ひとつには、御言葉を聞くことです。二つ目には、祈って待つことです。
3つ目は、聖霊の油、愛の油を用意して待つことです。
マタイによる福音書の25章に、10人の乙女のたとえがあります。
「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
すなわち、礼拝をもって、わたしたちは主をお待ちするのです。
オー・ヘンリーに、最後の一葉というお話があります。
結核の少女が、自分はもうだめだと思い、友人の作ってくれたスープも飲もうとしません。窓から見える木の葉がすべて落ちた時が、自分の終りと決めつけていました。
老画家が、精一杯の気合を込めて、少女が見える窓の外の壁に一枚の木の葉を描きました。それは、雨がふっても風が吹いても落ちない、最後の一葉でした。
老画家は、そのために精魂つきはてて亡くなります。少女は、その木の葉が描かれたものと、ある日気づきます。しかし、自分の罪深さを知り、死に急ぐ心をあきらめ、自分の罪を知った時、少女はスープを飲みはじめるのです。
終りの感覚が大事です。そのことに緊張感を持って、わたしたちも目を覚まして生きなければならないのではないでしょうか。
神さまへの希望、信頼を失ってはならないのです。いつも、より良く生きるために、目を覚ましていなければならないのです。
明日キリストが来られるというと、皆、それは大変だ、何の用意もしていないと、大騒ぎになるかもしれません。大騒ぎになるどころか、わたしたちは、眠くて、キリストが、共におられることすらわからない、愚かな罪人なのです。
でも、わたしたちの人生には、何が一番大切なのでしょうか。命を支えてくださる、罪を赦し、新しい命を約束なさったキリストが一番大事なのではないでしょうか。
キリストのご降誕を、クリスマスを、今年も、地上にあるわたしたちは、地上でお祝いしたいと思うのです。