マタイによる福音書10章5~15節
「十二人を派遣する」
10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
10:14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
10:15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
マタイによる福音書には、派遣の記事が2箇所でてきます。
1箇所は、今日の箇所、10章の12弟子の派遣、そしてもう1箇所は、マタイ福音書の最後28章です。
最初は12人です。28章では11人、イスカリオテのユダがぬけて11人の弟子を派遣します。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(
マタイ28:19~20)
今日の箇所は、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。天の国はちかづいたと宣べ伝えなさいです。
最初はイスラエルへ、そして、すべての民、国民への派遣です。
このように、マタイによる福音書には2回、主イエスの、弟子の派遣の記事があるのです。
主イエスは、12人を派遣するにあたり、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさいと言われました。
しかし、遣わされた弟子たちは、主イエスが言われたようにはできませんでした。
17章です。弟子たちが、どうしてわたしたちには、この悪霊の追い出しが、自分たちにはできないのですかと、主イエスに訴えるところがあります。主イエスは、祈りが足りない、これらは祈りによるのだと言われました。
12人が派遣されるのですが、何故、12人なのでしょうか。それは、イスラエルの12部族という言葉にあります。イスラエルは、ヤコブという人のことですが、ヤコブの10人の子たちと、ヤコブの子であるヨセフの子のマナセとエフライムで12人です。祭司の一族、レビをはずして、この12部族に領地が分け与えられたのでした。
すなわち、主イエスの12弟子は、新しいイスラエル、新しい12部族のことなのです。
古いイスラエルが、血縁、地縁、イスラエルという土地の選びの民であるのに対して、新しいイスラエルは、地縁、血縁によらない新しい12部族を意味しているのです。
さて、ペトロと呼ばれたシモン、アンデレ、ヤコブにヨハネ、徴税人のマタイ、熱心党のシモン、裏切ったユダなどが12人でした。
わたしに従いなさいという、主イエスの声に従ってきた、名も無い弟子たちを集めて、主イエスは、彼らを恵みの民とされたのです。
また、12人は、使徒と言って、主イエスの代理として、全権をあずけられたのです。
最初、弟子たちは、イスラエルの家の失われた羊のところに使われました。
失われた羊は、失われた者のことです。飼い主のない羊、弱り果て、うちひしがれている羊のことです。
彼らは、あらゆる病気や患いを負っていました。
失われた者というのは、神さまが失ったというのではありありません。何かの力で、神さまから離されたような、弱りきった羊たちということです。
そういう羊たちに、天の国は近づいたと宣べ伝えなさいと主イエスは言われました。救いが来たのです。御国の到来です。失われた羊が神さまのもとにあるというのです。
病人がいやされ、死者が生き返り、重い皮膚病が清められ、悪霊が追い出されていきます。
わたしたちも、ただで与えられたのですから、ただで与えるのです。
主イエスは、持ち物を持たないようにと言われました。
何もかも、そこで、食べ物を受けるようにと言われました。
わたしたちの人生は旅です。生きていくうえで、いろいろなものが必要です。しかし、いろいろな物を持ちすぎて、狭い門をくぐれないのではないでしょうか。
すべては備えられるとは、主イエスのお言葉です。
今日の聖書の箇所は、3つの部分に分かれます。
最初は、天の国は近づいた、与えよ、ただで受けたのだからただで与えよです。
そして、2つ目は、持ち物は与えられる、そこですべてを受けなさい。托鉢生活です。
最後は、平和があるようにという挨拶、祈りです。
平和という言葉は、平安とも、どちらにも訳される言葉です。
争いがないこと、神さまとわたしたちの間に争いがない平安、平和のことです。平和のほうがわかりやすいのではないでしょういか。
そしてこの平和は、平安は、イスラエルの挨拶になりました。平和がありますように、平安がありますようにという挨拶です。
神さまとわたしたちの間には、争いがあったのです。
しかし、罪を犯して、恵みを受けられなくなったわたしたちのために、神さまの独り子キリストが十字架に死んで、罪の身代わりとなることで、わたしたちと神さまとの間に、平和が、和解が立てられたのでした。
ですから、わたしたちは、誰にでも、平和があるようにと挨拶ができるのではないでしょうか。平和を祈ることができるのではないでしょういか。
平和を祈りなさいと主イエスは言われました。しかし、拒否する者がいます。それが現実です。
主イエスは、拒否する者には、足のほこりを落としなさいと言われました。
12人を派遣する話です。天の国は近づいたと、御国の到来、救いの開始を告げます。そして、平和を祈ります。
イスラエルの失われた羊への宣教は、言葉と業による宣教です。
そして、28章で、全ての民を弟子にしなさい、洗礼を授けなさいと命令されました。
十字架と復活の出来事を境に、すべての人への福音が、広がりをもって語られていくのです。
平和の福音は、新しいイスラエルの12部族、12弟子をとおして、わたしたちに同じように伝えられ、またわたしたちも伝えていきます。
わたしたちも、御言葉を、主イエスの言葉を伝えていきます。