2022年8月14日(日)聖霊降臨節第11主日 宣教要旨

マルコによる福音書10章46~52節

「信仰があなたを救った」

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

見えるようになりたいのです。ティマイの子で、バルティマイが、盲人の物乞いが主イエスに訴えたことでした。

バルティマイは、見えるようになりたいといつも思っていたのでありましょう。これは、当たり前といえば当たり前ですが、わたしたちも、誰にでも、本心は、見えるようにしてください、聞こえるようにしてください、立てるようにしてくださいという思いではないでしょうか。

福音書はキリストの御業を記した書物です。実にいやしの記事が多く出てきます。マルコによる福音書は、復活の記事も含めて、22の奇跡物語を報告しています。

カファルナウムの会堂で汚れた霊に取りつかれた人をいやした話にはじまり、シモンの姑の熱病、重い皮膚病、中風、片手の不自由な人、長血わずらい、死んだと思われた会堂長の娘を蘇生させます。

ゲネサレトの病人、ティルスの汚れた霊に取りつかれた娘のいやし、ガリラヤの耳が聞こえず舌が回らない人、ベトサイダの盲人、悪霊に取りつかれた人、エリコの盲人、そして復活の記事です。

マルコによる福音書に出てくる22の奇跡のうちの16が、病気や悪霊に取りつかれた人のいやしの記事なのです。

わたしたちの願いは、何よりも、いつも元気で、健康に過ごしたいということです。

福音書に、これほどいやしの記事が多いのは、わたしたちの本当の願いは、良くなりたいということを、神さまはご存知だからと思うのです。どういう思いで人は生きているかを、必要を、神さまは知っておられるのです。

つまり、ひとりひとりの救いに、聖書は焦点を合わせているのです。

主イエスと弟子たちの一行は、ナツメヤシの生い茂る町エリコを出るところです。ティマイの子、バルティマイ(バルは子という意味です)が、盲人の物乞いが道端に座っていました。

執拗に叫び続けます。ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。

周りの者は、迷惑な男と思ったのでありしょう。男を黙らせようとしました。

そこで、主イエスから、立ち止まって、呼んできなさいと言いました。人々が、主イエスがお呼びだ、安心しなさい、立って来なさいと言うと、男は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスのところにやって来ました。

ところで、いやしの話の中で、バルティマイという、実名が出てくるのは非常に珍しいケースです。平行記事、マタイによる福音書とルカによる福音書の同じ報告には、名前は出てきません。マルコによる福音書だけに、見えるようになった男が、ティマイの子、すなわちバルティマイという男だと名前が出てくるのです。

詳しい推測ははぶきますが、バルティマイは、主イエスにいやされ、主イエスに従い、そして、主イエスの復活の証人としてローマにまで行ったのではないでしょうか。

マルコによる福音書が、ローマで書かれたのならば、バルティマイもローマにいたと推測されます。

盲人のバルティマイは物乞いでした。物乞いですから、金持ちになりたいのですと願ったのかと思えば、そうではなかったのです。男の願いは、見えるようになることでした。

主イエスは、その通りだと、男の願いを受け入れたのです。

福音書で主イエスのなさった御業、奇跡が22あると言いました。最後の奇跡が、盲人の開眼、この見えるようになったという奇跡なのです。

それは、神さまは、わたしたちがどうなるようにと願っているか、わたしたちが本当に必要ななことは何か、つまり、見えるようになることですと、知っておられるのです。

人は、見えているようで見えていないことがあります。人が自分をどう見ているか、知らないのです。

また、神さまと人、神さまと自分との関係がどういうふうになっているかが見えてないのです。

神さまは、わたしたちをどうしてくださったのでしょうか。神さまは独り子をお与えになったほどにこの世を愛してくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためでありました。

その、神さまのお考えを、見えているのかと問われているのです。

人はひとりではありません。わたしたちと共にいてくださるインマヌエルの神さまがおられます。神さまは、いつも一緒に歩いてくださる神さまなのです。

どこを歩いているかわからないわたしたちに、声をかけてくださり、手を取ってくれる存在なのです。

主イエスは、盲人バルティマイの目を開きました。

言葉のことですが、最初、盲人は、目が見えるようになることですと言った目は、オフサルモイという言葉です。これは、視力の目のことです。

そして、主イエスが開いた目は、オフタ、心の目です。

今日の話は、自分の顔が、人との関係が、神さまとの関係が見えるようになったという話です。

奇跡は、あるように思います。しかし、大事なことは、心の目が開かれることです。

主イエスはわたしたちを呼んでおられます。何をしてほしいのかと。

聖書の物語は、聞くわたしたちをエリコの町に導きます。あなたはわたしに何をしてほしいのかと。わたしたちは、何を望んでいるのかと問うているのです。

最後に、主イエスはあなたの信仰があなたを救ったと言いました。

この男に信仰が与えられました。見えるようになることですという信仰、ただそれだけの信仰です。そして、それがすべてだったのです。

バルティマイは主イエスに従ったので、バルティマイと名が出てくるという話をしました。新しい生き方が始まったという話だと思います。

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