2020年10月4日(日)聖霊降臨節第19主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書10章22~30節

「わたしは彼らに永遠の命を与える」

10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。

10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

毎年祝われていた光の祭り、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われていました。わざわざ、神殿奉献記念祭が行われたと書かれています。

口語訳聖書では、宮清めの祭りと書かれています。

今日の個所は、主イエスと敵対するユダヤ人たちとのやりとりです。そして、この祭りと、やりとりには意味がありました。

神殿奉献記念祭、ハヌカは、11月から12月の、冬のお祭りでした。ハヌカは新しいお祭りでした。主イエスの時代から200年ほど前、そのころのユダヤは、セレウコス朝シリアの支配下にありました。シリアの王、アンティオコス・エピファネスは、ユダヤ人にギリシャの宗教を信じるように強制しました。エルサレム神殿に、ギリシャの神々の像が置かれ、拝ませたのです。

当然、異教の神々等を拝むということなど、ユダヤ人には受け入れがたいことでした。大抵抗運動が起きます。指導者、ユダ・マカベヤの名をとって、ユダ・マカベヤ戦争といいます。

BC184年、多くの人の命が失われたのですが、厳しい独立戦争に勝利します。神殿にあったギリシャ神の像等を打ち砕き、ユダヤ人は、唯一の主を礼拝する神殿を回復するのです。

この勝利を、神殿奉献記念祭、ハヌカといって、主イエスの時代に祝っていたのです。

まことの神さまを礼拝するために、命がけで守りとおした記念の祭りでした。

主イエスの時代、ユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。ローマは、ユダヤには懐柔政策を取り、信仰の自由を、唯一の神さまを礼拝する信仰を認めていました。

そこで、ユダヤ人たちが主イエスを取り囲んで言いました。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」主イエスは答えられました。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

 ユダヤ人たちは、主イエスを信じませんでした。神の子、救主のわざを信じない人たちがいたのです。

ガリラヤのカナで、水を葡萄酒に変えたしるしをはじめに、病気で死にかかっていた役人の息子をいやし、ベトザタの池では、病気で38年間苦しんでいた男を歩かせました。

五千人の人を満腹させ、湖を歩いて、弟子たちを助けました。

生まれつき目の不自由な人を、シロアムの池に行って洗いなさいとその目を開き、11章では、ラザロを復活させました、

救主は、わたしたちの病気を治してくださり、目を開いてくださいます。飢え、渇きをいやし、恐れるわたしたちに、恐れることはないと、手を差し伸べてくださいます。

あなたの罪は赦されたと言う主イエスこそ、わたしたちが待ち望んでいた救主、メシア・キリストであったのです。

しかし、ユダヤ人は主イエスを拒絶しました。信じないどころか、逆に、人々は、主イエスを石で撃ち殺そうとして、石を取り上げたのです。このように、主イエスを殺そうと思う人々がいたのです。

主イエスの救いは、十字架の道になります。十字架の道は、主イエスを、神の子、救主と信じない人々によって、動かしがたく、主イエスが十字架の上で死なれる道を敷くことになったのです。

何故、人々は主イエスを受け入れられないのでしょうか。それは、主イエスの思想とか、生き方とかではありませんでした。また、主イエスの教えによることもなかったのです。

今日の個所で、主イエスが十字架刑につけられる理由がはっきりと記されています。主イエスが、神の子、救主(メシア)であったからなのです。

主イエスが、立派な教師であるとか、歴史上の偉人のひとりであるとかであれば、誰もが受け入れることができたかもしれません。しかし、それでは、わたしたちの根本にかわる人にはなりません。人は、主イエスが、神の子、救主であったので、そうであれば、生き方を根本的に変えざるを得ないので、人は、主イエスを十字架にいつもかけてしまうのではないでしょうか。

自分の罪はいつもあるのですが、自分に罪があることを認めたくないので、人は、主イエスを十字架にかけてしまうのです。生き方を変えたくないので、自分の経験を動かしたくないので、主イエスを十字架にかけてしまうのです。

ヨハネによる福音書は、主イエスの十字架の道を記します。ユダヤ人たちは信じず、主イエスを十字架にかけることになるのです。そこに罪が明らかになるので、赦しが明らかになったのです。

主イエスを信じない人がいました。素直な人は信じて、素直で無い人は信じなかったのではありません。謙遜な人は信じて、謙遜で無い人は信じなかったのではありません。理由は、人にはなかったのです。神の子、救主が来られたことが信じられなかったのです。

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つであると主イエスは言われました。

 わたしたちは、主イエスの羊です。主イエスの声に聞き従う羊として集められています。

主イエスは、わたしたちの罪のために十字架にかかりました。主イエスを十字架につけようとするわたしたちのための十字架です。そして、わたしたち、羊のために命を捨てられたのです。

今日の主イエスのお言葉です。わたしはかれらに永遠の命を与える。かれらは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

 パウロは、このことを、死者の復活、天に属するその人の似姿になると言いました。ヨハネによる福音書は、永遠の命と言います。永遠のとは、神さまの内にある命、神さまと共にある命、神さまと一体である命のことです。すなわち、永遠の命とは、主イエス・キリストの内にある命、主イエス・キリストと共にある命のことです。

この命は、主イエスに養われる羊として、信じて従う者に与えられる命です。

聖書は、自然の土に朽ちていく命と、永遠の命とを区別します。永遠の命は、神さまと共にいる命、キリストと共にいる命です。いつまでも、時間が永遠に、限りなく続くような命、不老不死のような命ではありません。霊魂の不滅のようなことでもありません。

パウロは、種粒のたとえで、種粒から新しい体が生まれるように、新しい命が生まれると言いました。

主イエス・キリストの復活の命は、墓を空にして、神さまが引き上げられた力の命です。死を超える命です。そのことを、わたしたちは、主イエスとの交わりで、主イエスへの信仰で、御言葉の聴従をもっていつも体験しているのではないでしょうか。

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