2020年5月10日(日)復活節第5主日 宣教要旨

ヨハネによる福音書21章1節~14節

「主イエス、七人の弟子に現れる」 大三島義孝牧師

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

ヨハネによる福音書、21章1~14節までを読みました。ご復活の主イエスが、ペトロをはじめ、七人の弟子たちにご自身を現されたお話です。

その後、主イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現されました。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。主イエスが伝道を始め、漁師をしていたペトロとアンデレの兄弟、ゼベダイの子、兄弟のヤコブとヨハネを弟子にした海辺です。

その海辺に、主イエスはご復活されて、もう一度網を打って引き上げよ、人間をとる漁師にしようと、かつて召した弟子たちをふたたび召したのです。

まずペトロです。わたしは漁に行くと先頭を切ります。 他の弟子たちも続きます。ディディモと呼ばれるトマス、疑い深い、見ないと信じないと言い張ったトマス、他にガリラヤのカナの出身のナタナエルという弟子、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、そして名前のわからない二人の弟子です。

夜通し漁をしたのですが魚はとれません。その弟子たちのところに、主イエスが近づき、何か食べるものはあるかと問います。主イエスは、弟子たちが何も食べるものがないこと、魚もとれなかったことを良くご存知でした。しかしこの時も、弟子たちはその方が主イエスであるとまだわかりませんでした。

何もとれませんと弟子たちが答えると、主イエスは、舟の右側に網を打ちなさい、そうすれば捕れるはずだと言われました。主イエスは、どこがよい漁場が良いかと 場所を教えたというのではありません。主の言葉のもとに、弟子たちを招いたのです。わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしようというみ言葉の再現です。ご自分の言葉のもとに、弟子たちに務めを与えたのです。

弟子たちは知っていました。主イエスのお言葉通りに 網を降ろしてみると、引き上げることができないほどの魚がとれたのです。

主イエスの愛しておられた弟子が、主だと言うと、ペトロは、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込みます。他の弟子たちが網を引いて、船で主イエスのところに戻りました。すると海辺に炭火がおこしてあり、その上に魚がのせられ、パンもありました。主イエスが用意したのです。弟子たちがとってきた魚もそこにのせられていました。朝の食事の始まりです。

主イエスはパンをとって弟子たちに与え、魚もおなじようにされました。復活の主イエスが、弟子たちをあらためて招き、あらためてお用いになります。

弟子たちは、かつて、主イエスに従いました。そのように、もういちど、あらためて復活の主イエスに従うようになるのです。

今日も漁はとれません。徒労に終わる毎日です。わたしたちは何も良いものを持ち合わせていません。主イエスは良くご存知です。しかし主のお言葉のもとにおかれるとき、主イエスにとどまるとき、私たちの漁は徒労に終わるということはありません。主が食事を用意してくださるからです。

そこに集められた魚は153匹でした。一説によりますと、153という数は、当時知られていた魚の種類の数といわれます。すなわち、全種類の魚が網の中に集められました。世界中の全ての民が、主の食卓に招かれたことを、象徴的にあらわされたというのです。

ある先生が、この箇所の説教に、「恵みを数える人生」と題をつけて話されました。魚の種類とか、民族の数とかでなく、一匹一匹数え、実際に153匹だったのではないかというのです。1匹、2匹と数えて、151匹、152匹、153匹と、153匹だったというのです。

ペトロも、他の弟子たちも、自分たちの恵みを、数えるたびに思い出しました。主イエスに従って、主イエスに声かけられて従うようになりました。いろいろな恵みがありました。教えられたり、助けられたり、困ったこともありました。そういう恵みを思い出したのではないかというのです。

この先生の説教ですが、声をだして、一匹、二匹と数えたというのです。恵みの上に更に恵みを受けたと、弟子たちはその人生を思い出し、数え上げたのです。

非行少年、非行少女を矯正するときに、恵みを数えるということをするそうです。生まれて大きくなるまでの恵み、どれだけのお金がかかったかなど、数えさせることがあるそうです。紙に書かせる方法もあるようです。

何かマイナスだらけの人生、現実と人は思うかもしれません。しかし、人生はかなりのプラスであることがわかります。恵みであふれるほどの人生であったとわかるというのです。

お弟子たちは、153匹の魚を数えて、自分たちは主イエスに従ってきた、またあらためて従うということを教えられたのです。

最後のところですが、不思議な一人の弟子、主イエスの愛しておられた弟子と呼ばれている人がでてきます。

主イエスが、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」と言いました。主が弟子たちの漁の様子を見守っていますが、ペトロをはじめ他の弟子たちは、それが主であることに気がつきません。しかし、この「イエスの愛しておられた弟子」は、それが主であることに気づき弟子たちに教えました。

詳しい説明ははぶきますが、最後の晩餐の席で、主イエスの右側にいた弟子ではないかと想像されます。

今日の聖書の箇所では、海辺で他の弟子たちに先んじて「主だ」と、復活の主を指し示したのでした。

さらにこの後、21章20節以下を読みますと、弟子たちの群れにいて、いつも主と共にいる弟子として紹介されています。そしてこの福音書は、この人の証言によって書かれたと記されています。

「愛」とは、主のお言葉にあるように、父と子と弟子たちが一つであること、一体であるということです。子なる御子、主イエス・キリストが神のみふところにおられた独り子、愛する独り子でいらっしゃいますが、主の愛された弟子は主の胸もとに、主のみふところに招かれているのでありました。

ティベリアス湖で、弟子たちが復活の主のお言葉のもとに招かれ、主のもとに置かれました。弟子としてあらためて召されたのでありました。主が朝の食卓に弟子たちをお招きになったとき、153匹の魚が弟子たちの手によって漁られていました。世界中のすべての民が集められ、喜ばしい主の食卓に、すべての民が招かれるということを主はお教えくださいました。

お弟子たちは、153匹の恵みを、声をだして数え、思い出したのでありましょう。わたしたちも恵みを数えます。キリストに救われたこと、キリストに赦されたこと、キリストに恵まれたことなどなどを数え上げます。

もうひとつ加えなければなりません。神さまがわたしたちを覚え、数えてくださっていることです。

マタイ(とルカ)による福音書にでてきます。2羽のすずめが1アサリオンで売られている。その一羽も、神さまのお許しがなければ地に落ちることはない。ましてあなたがたはその髪の毛までもかぞえられている。神さまはわたしたちを忘れていない。わたしたちを覚えている。数えるというのは、聖書では、愛されている、大事にされているという意味になります。

人は、恵みを数えて生きます。キリストにみ救いがあります。キリストが共にいてくださいます。キリストを深く知るとき、恵みを数える人生の、新しい意味が生まれるのではないでしょうか。恵みを数えて、数えられている恵みがあること、お互いに恵みを数える人生があると思います。

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