2022年7月31日(日)聖霊降臨節第9主日 宣教要旨

マルコによる福音書9章33~37節

「いちばん偉い者」

9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

いちばん先になりたい者は、いちばん偉い者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。主イエスのお言葉です。

そして、一人の子供の手を取って、真ん中に立たせ、また、その子供を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。

ガリラヤから始まった主イエスの宣教旅行は、シリア、フェニキア、フィリポ・カイサリアに至り、帰り道に、カファルナウムにあったペトロの家に戻ります。

一行がその家についた時です。主イエスは、途中で何を議論していたのかと、非常に改まった様子で弟子たちに問いました。厳しく、何を議論していたのかと問うたのです。

弟子たちは黙ってしまいました。その心中は、誰がいちばん偉いかと議論していたからなのです。

それぞれ、弟子たちは、仕事を捨て、家を捨て、家族を捨てて主イエスに従ってきました。そういう中でも、誰がいちばん偉いか、自分たちの中でいちばんは誰かと議論していたのです。

主イエスがその議論を聞いていました。

主イエスは、座って、改まった態度で、十二人人を呼んで、いちばん先になりたい者は後になりなさい。すべての人に仕える者になりなさいと言ったのです。

わたしたちは、誰でも偉くなりたいものです。それが自然と思います。やはり、誰でも人は、偉くなりたい、上になりたいと思うのです。

地位ということだけでなく、今よりいいように過ごしたいと思うのが本音だと思うのです。

弟子たちの議論ですが、もう少し先を読むと、10章に、ヤコブとヨハネの願いという話がでてきます。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、主イエスに言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」主イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言いました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」そこで主イエスは言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、主イエスは言われました。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたというのです。

偉くなりたいと、主イエスの弟子たちは、誰もが考えていたことがわかるのです。

そこで主イエスは、あらためて言いました。本当に偉くなりたいのなら、いちばんになりたい者は、すべての人の後になり、仕える者になりなさい。

主イエスの教えと、弟子たちの思惑にはずれがあります。

弟子たちは、この世的に偉くなりたい、いちばんになりたいと思っていました。一方、主イエスが言われたいちばんになるということは、神の国に入ることが焦点なのです。

マタイによる福音書18章です。そのとき、弟子たちが主イエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言いました。そこで、主イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

この世のことではなく、天の国、天国の問題を言われたのです。

ある先生の、ここのところの解説です。弟子たちは、何でいちばんにならなければならないのかと思っていました。そのことが問題でした。そのことを、主イエスは、愚かな議論に聞こえたのだというのです。

そして、本当は、いちばんでなければならないということは、この世の中では必要でないことなのです。

主イエスの教えは神の国の教えです。決して地位争いではありません。誰がいちばんとか、序列がどうだろうかというのではありません。本当にいちばんに、御国の先頭になるためには、すべての人の後に、すべての人に仕える者となりなさいと言ったのです。

すべての人の後とは、すべての人の最後にということです。

また、主イエスは言われました。一人の子供を受け入れるように、子供を受け入れる者が、わたしを、主イエスを、わたしをお遣わしになった方、主なる神さまを受け入れるのですと言いました。

子供は価値のない者の象徴です。

イザヤ書の53章です。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

この苦難の僕、神の働き人を、イザヤ書は「主の前に萌え出た若木」と呼んでいます。それは、ギリシャ語の翻訳では「幼子」という言葉に置き換えられています。

ギリシャ語の翻訳というのは、70人訳と呼ばれるもので、紀元前1世紀のはじめには翻訳されていたものです。主イエスの時代の人々は、この70人訳ギリシャ語旧約聖書を知っていました。

このギリシャ語の聖書が、「主の前に萌え出た若木」を「幼子」という言葉で言い表しているのです。

「子供、幼子を受け入れる者は」と言われた時、主イエスはこのイザヤ書の言葉を思いおこさせようとしておられるのだ、というのです。

受け入れる、という言葉ですが、喜んで迎えるという意味の言葉です。

幼子を受け入れる信仰、キリストの十字架を、自分と決して切り放すことのできないこととして教えられていく信仰生活は、喜びをもってキリスト迎え、父なる神を迎えるところの生活なのです。

いえ、わたしたちが受け入れるのではありません。神が愛するひとり子を十字架に渡し、その苦難と死をとおして、罪深いわたしたちを喜んで迎えて下さっているのです。

カファルナウムの家はわたしたちの教会です。教会は仕えるところでなければなりません。

神の国でいちばんになるためには、すべての人に仕える者になり、子供を受け入れる者にならなければなりません。

わたしたちは罪深いのです。この世の思い患いに、欲に、富に、心がふさがれているのです。この罪びとの身代わりに、主イエスは、わたしたちの罪を負ってくださいました。値なくして、わたしたちは救われたのです。

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